昼、同居人と地元イタリアン。 神保町シアターで、57年東宝稲垣浩監督『柳生武芸帳(240)』。五味康祐原作。禁裏(天皇家)と徳川家に関する柳生の秘密が記された柳生武芸帳を巡って、柳生家と、その追い落としを狙う山田風月斎(東野英治郎)との争いと、江戸柳生家の総帥、柳生但馬守(大河内伝次郎)と知恵伊豆と称される老中松平伊豆守(小松明雄)との幕府内の権力争いに、大久保彦左衛門(左卜全)らが絡む。
霞の忍者霞の多三郎(三船敏郎)は、弓削三太夫(熊谷二良)に鍋島藩から柳生武芸帳を持ち出させたが、柳生十兵衛(戸上城太郎)に襲われ、夕姫(久我美子)に持ち逃げされた。夕姫は、鍋島藩に滅亡された竜造寺家の姫君で、お家再興を夢見る遺臣たちの為に武芸帳を利用しようとしたのだ。多三郎は竜造寺の隠れ部落に乗り込み夕姫を人質にするが、夕姫に惹かれ、また忍者としての生き方に迷いが生じており、十兵衛が村に火を付けたため夕姫を解放して去った。
その頃江戸の柳生屋敷では、但馬守が嫡子友矩(平田昭彦)と又十郎(中村扇雀)、娘の於季(香川京子)に、鍋島柳生の柳生武芸帳が奪われた話をし、武芸帳は鍋島柳生、禁裏、江戸柳生家と3巻あり、全巻揃えると柳生の秘密が暴かれ一家の存続に関わる旨を伝え、柳生家にある巻き物を開くとなんと中は全くの白紙であった。但馬守は天井に剣を投げる、そこには、武芸帳をすり替えることに成功した霞の千四郎(鶴田浩二)が潜んでいた。屋敷中を追われ、又十郎によって手傷を負った千四郎だが、巻き物を返すことによって、於季の助けによって屋敷を脱出する。
竜造寺残党は、武芸帳を密かに隠して夕姫と江戸に向かう。大久保彦左衛門か柳生但馬守のどちらかに持ち込んで、お家再興の後押しの取引にしようと考えたのだ。道中、十兵衛に襲撃されるが、多三郎に助けられる。その行為は浮月斎を激怒させる。
禁裏の武芸帳は隠してあった掛け軸ごと、家光(岩井半四郎)を経て彦左の手に渡った。危機感を募らせた但馬守は、又十郎に“くの一"の術を施す。くの一とは文字通りくノ一、歯を全て抜き顔の輪郭を変えて女性に変身するという柳生に伝わる恐るべき忍術である。又十郎には、将来を誓ったりか(岡田茉莉子)がいたが、施術を受けて何も食べられない又十郎に口移しで飲食をさせるなど甲斐甲斐しく尽す。又十郎は、竜造寺の夕姫に化けて彦左衛門のもとに潜入、舞踊を舞う。しかし多三郎に見破られ、千四郎と戦ううちに、武芸帳は又十郎と千四郎との手元に真っ二つに。半分を手に入れた浮月斎は千四郎を褒めたが、未だ鍋島柳生版の武芸帳を手に出来ない多三郎を罵倒して破門、千四郎に実兄・多三郎を討つように命じた。真剣勝負の末、兄を逃がした。
武芸帳に関する柳生の暗躍を知った彦左は、家光(岩井半四郎)に、但馬守をお役御免にするよう注進する。伊豆守は、この事態を巧みに利用しようとする。竜造寺一派の五升賀源太(土屋嘉男)は家老を切り夕姫を監禁して、風月斎と手を組み柳生に戦いを挑むことにしたが、十兵衛たち柳生には洩れていた。十兵衛によって次々に斬殺されていく竜造寺の遺臣たち。そこに駆けつける多三郎。夕姫を救い柳生から逃げる。追っ手が迫る中、激流を流れていく筏の上で、二人は互いの気持ちを確かめ合った。
まあ、五味康祐の原作でいうとまだ半ば、原作自体五味康祐が無くなったことで未完だ。読み返すのも面倒で、ネットで探っても、うまく粗筋をまとめているものが、ほとんどない。まあ、週刊誌の連載小説だから、毎回見せ場を作らなければならないので、話自体も行ったり来たり、読み取りにくいかもしれないが、自分は、読み始めたら、テンポよくて一気に読んだ記憶があるけどなあ。自分の記憶だと、結構、映画は、よくまとめてある感じがするが、ネット上では、どうも評判は悪い。
面白かったから、まあいいや(笑)。ただ、くの一はなあ、中村扇雀の女形、舞も含めて本物なんだが、ちょっと顎から頬にかけて髭濃いと見えて青々としている。57年の時代劇だから見事に女となって綺麗だなと思うルール、他にも刀が当たっても金属音がしないとか(笑)21世紀の視線は失礼なんだろう。
64年大映京都三隅研次監督『座頭市血笑旅(241)』。善光寺詣り講の座頭たち20人程の列を、文殊一家が座頭市がいないか問いただすが、彼らは松の市、杉の市やら自分たちはみな座頭の市だと言って座頭市を助けた。歩く市を駕籠かきが戻り駕籠で安くするから乗らないかと誘う。迷った末、市は駕籠に乗ったが、途中赤子を連れた女(川口のぶ)が差し込みで倒れていたのを見て代わりに載せる。しかし、市が駕籠に載るのを見ていた文殊たちは、待ち伏せてメッタ刺しに。市が駆け付けると、赤子を守るように女は事切れていた。女は宮木村の宇之助(金子信雄)の妻おとよ、夫の借金で身売りされ年季明けで帰るところだった。市は、駕籠かきと赤子を宮木村に届けることに、しかし、旅籠で文殊一家が襲ってきたときに駕籠かきは逃げ出し、結局、市と赤子の旅が始まった。
目が見えない市が赤子の面倒に苦労しながらも、文殊一家は何度となく襲いかかって来る。途中の賭場で路銀を稼ぎ(勿論、市はイカサマを見破って(見てはいないが・・・(笑))すったもんだがある。) 。
旅の途中、女掏摸お香(高千穂ひづる)と出会い1日1両で赤子の面倒を頼む。最初は市の路銀を狙って下心があったお香だが、一緒に旅をしながら子育てをするうちに、市を見る目は変わっていった。やっと宮木村に着いた。赤子と別れがたくなったお香は、宇之助に返すのを1日遅らせないかと言いだす。市の本当の気持ちは一緒だったが、実の父親が必要だと自分の心に言い聞かせて、お香に余分に銭を渡して別れを告げ、宇之助のもとを訪ねる。繭の仲買いだった筈が、宇之助は博徒になって一家を構えようとしていた。どこぞの親分の娘との縁談があるらしい。そんな宇之助は、おときやその子供なんて預かり知らぬと突っぱねる。市は、怒りを抑えて、自分の子供として育てようと思うのだ。
一人生き残っていた文殊の和平次(石黒達也)は、宇之助に市を殺して男を上げろ、市の剣を封じる方法もあると耳打ちするのであった。市は了海和尚(加藤嘉)におときの供養を頼む。これから赤子のためなら何でもしよう思うという市に、和尚は、やくざで渡世人の座頭が旅をしながら連れ歩くよりも、寺で預かって育てる方が、この子のためだと説く。苦悩の末、市は赤子を和尚に手渡す。宇之吉の一家は、炎のついた松明を持って市に襲いかかって来た。炎で音が聞こえず、火が市の着物に燃え移って壮絶な戦いとなる。ただ、市は、見事全員を討ち果たす。赤子に気持ちを残しながら、市の当てのない旅がまた始まった。
殺陣は勿論だが(特に、最後の着物が燃えながらのシーンはすごい)、赤子との二人旅での泣かせる演技が素晴らしい。それとお香とのプラトニックな情愛。お涙頂戴ではなく、抑えた演出での情感、三隅研次監督と勝新太郎コンビの真骨頂。いきなりシリーズの中で凄いやつを観てしまった。
ポレポレ東中野で71年東陽一監督『やさしいにっぽん人(242)』。バイクショップで働きながら、バイクでツーリングを続ける謝花治(河原崎長一郎)は、1歳の時に渡嘉敷島の集団自決で生き残ったが、全く当時の記憶はない。ある日彼がツーリングに出ると、警官に止められた。学生との鎮圧訓練をしていたのだ。彼が笑うと、いきなり警官たちは彼に殴り掛ってきて怪我をさせられる。バイクショップの仲間たち(伊丹十三、蟹江敬三、石橋蓮司、横山リエ)たからはシャカと呼ばれている。彼には、劇団の演出家の助手をしている恋人ユメ(緑魔子)がいる。ユメは演出家(伊藤惣一)から渡嘉敷島に取材にいかされるが、そこでの体験を説明する言葉を見つけられない。それは、シャカが自分の言葉を持たず、他者の文章の引用することと共通しているのかもしれない。シャカのアパートでは、育児ノイローゼになった女(桜井浩子)が窓から子供を投げ捨てたり、公衆電話では、老婆(東山千栄子)が孫に遠い世界に旅立つお別れを言っていたり、チマチョゴリの制服を着た女子高生が詰襟の男子学生に陰湿な虐めを受けたり、女(渡辺美佐子)が、死んだ夫の好きだった話と遺書のように残した言葉を独白していたりしている。
ツーリングの間でも、雨宿りした小屋で、殺人犯とめぐり合せ共犯者と間違えられて撃たれたり、最後には、ガードレールに激突してバイクは炎上だ。 治は、バイクを失ってどこへ行こうとしているのか・・・。
15,6の小憎の時は、とにかく緑魔子にやられた。なんてかっこいい女性だろうと思った。それだけで、なんてかっこいい映画だろうと思った。しかし、あの70年前後の空気の中ではなく、50の自分が今観るといささか色褪せて見えてしまう。ドキュメンタリー映画監督としての東陽一が、ドキュメンタリー的な映像の中で試みている演出、あえてドラマ的な盛り上がりを排したような棒読みのセリフは時として滑っている感じがしてしまう。スチールのようにスタイリッシュでかっこいいシーンをぶつ切りにつないでいく映像は少し散漫な感じもする。
よりドキュメンタリーにその時代を切り取った『新宿泥棒日記』に比べて、その時代に生きる人々の迷走を演出のもとで撮影したこの劇映画は、あの時代という環境の中でしか、共有できないのだろうか。今回の上映は、「オキナワ、イメージの縁(エッジ)映画編」という企画の一環であり、上映前にこの企画者の方が、当時の中上健次の映画芸術での評価やその意味などの説明があったが、何か鑑賞するための舞台装置が足りない気がする。東陽一監督の作品は、『やさしいにっぽん人』『日本妖怪伝 サトリ』『サード』と続く3作品は、とても好きだったが、80年代の女性映画『もう頬づえはつかない』『四季・奈津子』『ラブレター』と、どんどん自分の中では、駄目になっていった。それは、ひょっとして映画を観る人間に時代という舞台装置が希薄になっていく過程だったかもしれない。そういった意味で、サトリとサードを改めて見直したいと思う。勿論、スクリーンを通じてだ。
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