2008年11月8日土曜日

捨吉という名前では、かわいそう。

   神保町シアターで、55年日活佐藤武監督『スラバヤ殿下(260)』。長宗我部究太郎は、世界的に著名な物理学博士で、日本に向かう航空機に乗っていた。機内には究太郎の研究を狙う秘密諜報部員たち、アカレンド連邦のズルコフ(千葉信夫)とドルマニア国のジョー(有島一郎)の姿も。羽田に着いた博士を出迎えたのは助手のみどり(島秋子)、乳母のおきん(飯田蝶子)とその孫娘直枝(馬渕晴子)だった。
    一方、太平洋を航海する貨物船では、究太郎の実弟でペテン師英二(森繁久弥)が南洋の島での極楽のような生活を船員たちに自慢する姿があった。ビキニ諸島近くで放射能に汚染された雨が降ってきた時に、金儲けのアイデアが思いつく。英二は、帰国次第、ビキニ諸島近くの放射能汚染した雨から作った薬品、ビキニールAと、北海道の雨から作ったサハリンSを、兄究太郎監修と偽って売り出し、大儲けをする。しかし、労働争議が起きて会社のお金が回らなくなって、兄の家に無心に現れる。究太郎は、懲りずに悪さばかりする弟を叱責し、乳母と直枝も、外見はそっくりだが、中身は正反対な英二を毛嫌いしている。だが、実は直枝は英二の娘だった。
  英二の詐欺がばれ、頭髪が抜け落ちた被害者や兄と間違えられたことをいいことにお金を騙し取ったスパイたちに、英二は追い掛け回される。追い詰められた英二は、房総の海岸に漂着したスラバヤ殿下という南洋人になりすます。その真偽も含めスラバヤ殿下は一躍マスコミの寵児となる。その人気に目を付けた、歌手真野加代子(丹下キヨ子)とプロデューサー(三島雅夫)は、スラバヤ殿下をメインにショーを企画する。英二は悩んだが、バレリーナを目指す直枝にデビューのチャンスを与えられることと、南洋に戻る資金になると考え契約書にサインする。いよいよ、満員御礼な状態でショーが始まった…。
   なんとも馬鹿馬鹿しいミュージカル(?)コメディ。ビキニ諸島での水爆実験や東西冷戦など当時の世情を取り入れつつ、森繁の二役で、真面目な人情男と、いい加減な調子者というある意味森繁の二面性を演じ分けている。歌も踊りも器用な人だったんだなあ。スラバヤ殿下と、三木のり平の留学生役とのドーラン塗りたくったインチキ南洋人のインチキ外国語の掛け合いなど当時のコメディアンのレベルの高さを思い知らされる。ナレーションは徳川夢声。
  続いて55年日活川島雄三監督『銀座二十四帖(261)』。銀座で花売りをしているコニィ(三橋達也)は、弟分のジープ(佐野浅夫)が、最近またヒロポンを打ち始めたらしいことに胸を痛めている。花屋には、銀座の孤児院の少女たちがおり、その中のルリ子(浅丘ルリ子)は夜間の学校に通いながら健気に働いている。ある時京極和歌子(月丘夢路)が花を買う。彼女は、夫と離婚話が進行中で、一人娘を義母の下において、自活しようと銀座の料理屋菊川にいる。自活の元手にしようと、亡父のコレクションの絵画を画廊に預ける。GMという署名のある和歌子の少女時代のポートレートがあり、彼女は売る気はなかったが、誰が描いたのかを知りたいなら飾りましょうと画商に言われ同意する。大阪から和歌子のいとこの仲町雪乃(北原三枝)が両親に内緒でミス平凡コンテストに出場するために上京してくる。両親に雪乃は、そのスタイルのように伸び伸び成長した奔放な性格である。当時の銀座の魅力に、コニィを始めとする和歌子を取り巻く銀座の男たちのラブロマンスと思いきや、中盤から、和歌子のポートレートのイニシャルMGが誰かということと、和歌子が夫との離婚を考えたのは夫の非合法なビジネスに関係していたことや、銀座の闇の部分に迫っていくサスペンス風に。歌とジョッキー森繁久弥というクレジットが冒頭に出て、割と軽妙な話しぶりで進行していたので、前後半でだいぶ趣が違うが、破綻はしていない。個人的な見どころとしては、石原三枝さんになってからしか知らないに等しいので、この映画での北原三枝のかっこよさ、それに、浅丘ルリ子の美少女ぶりはやはり群を抜いている。
  川島雄三監督『雁の寺(262)』水上勉直木賞受賞作品。昭和の初め、京都洛北の狐念寺に、画家岸本南岳(中村鴈治郎)の襖絵が完成した。南岳は、1年以上も狐念寺に居続けをいいことに、愛人の桐原里子(若尾文子)を囲っている。しかし、南岳は倒れ、今わの際に狐念寺の和尚慈海(三島雅夫)に里子のことを託すのだった。
  慈海は、南岳の初七日に里子を寺に呼び、南岳の遺言を伝えながら強引に自分のものとする。貧しく、生計を立てる術もない里子は、慈海の囲われ者としての道を選ぶのだった。狐念寺には、小坊主の慈念(高見国一)がいたが、貧しい育ちで逃げようもないと高を括る慈海の、修行というには余りに酷な扱いを受けていた。禅寺の修行僧が行く中学に通わせてもらっていたが、勉学はできても、教錬(軍事訓練のようなもの)が嫌いでさぼりがちであった。ある時担任の僧、宇田竺道(木村功)によって、慈海たちにばれてしまう。里子は、当初無口な慈念を気味悪がっていたが、慈海の仕打ちのあまりの酷さに、徐々に慈念を気遣い、生い立ちなどに興味を持つが、かたくなに拒絶する慈念。
  ある日、福井から慈念を連れてきた本田黙堂(西村晃)が、総本山に来るついでに狐念寺に来ることになった。門のところで、黙堂を捕まえた慈念は両親のこと、自分の生い立ちを一切話さないように懇願するのであった。しかし、酒好きな黙堂は、酔ううちに、里子の質問に、慈念は、捨て子であり、乞食谷というところに住む、子供が5人いる宮大工が拾って育てたが、生活が苦しくなって、口減らしのために、坊主にされたことを話してしまう。慈念の本名が捨吉で、その名を、心の底から嫌がっていることも。
  しかし、その話を聞いた里子は、慈念の身の上に強い同情を覚え、ある晩、慈念と関係を持ってしまう。その頃から、慈念の心の中に狂気が育ち始めた。
  囲われ者里子の若尾文子、哀しく美しい。慈念役、乞食谷のころと、京都に出てから、本人が成長したかのようで、凄い役者なのか、技術だなとビックリしながら見ていたら、兄弟だったようだ(苦笑)。
 最後、急に現在の京都に場面が変わり、雁の寺が観光ルートになっており、外国人の観光客に通訳を通じて襖の雁の絵の由来を説明するのが、小沢昭一。 原作井伏鱒二、脚本川島雄三藤本義一 。
   59年宝塚映画川島雄三監督『貸間あり(263)』。大阪の郊外にある珍妙な構造のアパートに、英仏中露、5ヵ国後に堪能で、文系理系、料理のメニュー作り、無痛分娩の方法など、何でも知っている与田五郎(フランキー堺)という男がいる。人に頼まれると嫌とはいえない性格と、何でもできるが、何かに専念をしないということに、何か屈託のある男だ。そのアパートに陶芸家の津山ユミ子(淡島千景) 海外に陶芸を紹介するパンフの翻訳を五郎に依頼しようとやってくる。ユミ子は、入口に下がっている「貸間あり」という表札に、ただちにこのアパートに住むことに決める。五郎は、懸賞探偵小説の代筆やら、怪しげな浪人生江藤(小沢昭一)の予備校の実力テストへの身代わり、アパートの住人谷洋吉(桂小金治)が営むコンニャク製造やキャベツ巻のアドバイザーにして営業担当など何でもありである。
アパートの住人は、谷洋吉以外にも、三人の旦那を持つ妾のお千代(乙羽信子)、保険代理業野々宮真一(増田キートン)、洋酒の密輸屋ヤスヨ(清川虹子)、夫とラブラブで妊娠中の教子(市原悦子)、エロ写真売りのチンピラのハラ作(藤木悠)、蜜蜂を飼いそのロイヤルゼリーに怪しい回春薬品を発明する熊田(山茶花究)、妻お澄(西岡慶子)の性欲の強さに悩む骨董屋宝珍堂(渡辺篤)、豪つくな管理人おミノ(浪速千栄子)を始め強烈なキャラクター揃い。複雑なつくりのアパートの建物の構造も含め、ドタバタ凄いなあ。しかし、あまりに何でもありすぎて少し散漫な印象も。
   ポレポレ東中野で、72年創造社日本ATG大島渚監督『夏の妹(264)』。菊池素直子スータン(栗田ひろみ)は、自分のピアノ教師で父親と結婚することになった小藤田桃子(リリィ)と沖縄にやって来た。舟で知り合った男桜田拓三(殿村泰司)と一緒だ。桜田は、自分を討ってくれる正しいウチナンチュウを探しにやってきた。
   港で、体に沖縄語教えますと書いた不思議な若者(石橋正次)と出会う。素直子は、大村鶴男という男からの手紙に、自分が素直子の兄かもしれなく、東京に行った際に、家の庭にいた素直子を見かけ、自分が異母兄かもしれないこと、夏休みに沖縄においでとの手紙を受取り、鶴男に会いたくてやって来たのだ。桃子は、素直子の話を聞いて鶴男は自分と素直子を間違えていることに気がつき、付いて来た。
  まず、二人は鶴男の母の大村つるを探す。ホテルを経営していたが、3ヶ月前に売却し、小さな島に住んでいるらしい。北部行きの観光バスに乗り、ひめゆりの塔などを見学しながら向かう3人。ビールを飲み続ける桜田。つるの家に着いた時には、酔っ払って昼寝をする。素直子も寝かしつけて、桃子は、帰宅途中のつる(小山明子)に会う。鶴男の所在は知らないというつるに、桃子は鶴男の勘違いを伝えて、素直子には内緒にするように頼むのだ。
  つるに会えなかった素直子と桜田を連れて、桃子は那覇に戻る。何だか腑に落ちない素直子と桜田は、夜の街に出て、不思議な若者に再会する。桃子は、ホテルで大村鶴男からの手紙を受け取り、翌朝鶴男が指定する場所に出かけた。素直子は、街をさまようと、酔って地べたに寝ている不思議な男照屋林徳(戸浦六宏)に会う。林徳は、自分が殺すにふさわしいヤマトンチュウを探しているのだと言う。その後、警察に行って大村鶴男のことを聞くが、家出人名簿などを見ろと言われて途方に暮れる。彼女が警察内で、「大村つるさんの息子の大村鶴男さんを探しています」と叫ぶと、一人の制服の男(佐藤慶)が現れる。男は、国吉真幸と名乗り、素直子の父、菊池浩佑(小松方正)と大学時代の同級で大村つると前後して交際、菊池か国吉のどちらかが、鶴男の父親だと伝えるのだ。
  東京で判事をしている浩祐が休暇を利用して沖縄にやってくる。空港で桃子だけではなく、国吉が出迎えたのに驚く。少し遅れて、その日の朝に鶴男と会っていた桃子も合流した。その晩一緒に食事をする約束をして国吉と別れる、国吉の部下が浩祐たちを、市内観光に案内する。夜、国吉がセッティングした場に浩祐が出向くと、照屋林徳を沖縄民謡の名人と紹介、更に大村つるが現れる。その頃、鶴男を探す素直子と桃子の前に、鶴男が現れる。鶴男には真相がわかったようだ。結局、鶴男、素直子、桃子の三人も、国吉たちの宴席の場に出向く。また、林徳の歌に魅かれて、桜田も現れる。素直子の奔放な発言に、大人たちは会のお開きを決めるが、桜田と林徳は、二人残り、杯を重ねる。
  翌朝、浩佑、桃子、素直子は釣りに出かける。その船上で、桃子は鶴男に関しての話を浩佑にすべて話すのであった。浩佑と桃子は一足先に飛行機で東京に帰って行った。船で帰る素直子には、もう少し時間がある。改めて鶴男と会う素直子。
  栗田ひろみとリリィの棒読みのセリフさえ、何か栗田ひろみの純粋性と、リリィの透明感を表現するための手法に見えてしまうというのは甘い評価だろうか。つるは、本当に気高い美しさに輝いており、母性、あるいは沖縄の自然の象徴のようでもある。日本の法制度の権威の番人としての裁判官である菊池浩佑と、国吉真幸という沖縄官吏の、どちらが父親か特定できないという鶴男は、何か沖縄を象徴した存在なのかもしれない。うがった見方かもしれないが、鶴男の、本土からの観光客に沖縄の言葉を教えて100円もらうという昼間の怪しげな生業と、沖縄の曲も、日本の曲もろくに知らない、三線ではなくギターを抱えた流しという夜の生業も、何だか象徴的ではないか。海上の小舟で、正しい沖縄人に殺して貰うためにやってきた桜田と、ヤマトンチュを殺す為に生きてきた林徳が揉み合い、桜田が林徳を海に突き落とすシーンで終わるのだが、桜田の姿はこの映画を撮りに沖縄にやってきたヤマトンチュである大島渚自身かもしれない。
   アイドルを使って撮った理屈っぽい分かりにくい映画にも見えるかもしれないが、むしろシンプルに、沖縄に対する、揺るがない大島渚の思想を表現した作品といえるのではないだろうか。

2008年11月7日金曜日

久し振りにロードショー3連発。

   新宿ピカデリーで『ブロードウェイ♪ブロードウェイ~コーラスラインへの道(257)』。2006年のコーラスラインのブロードウェイでの再演に当たってのオーディションに挑むダンサーたちの闘いを縦糸に、制作した故マイク・ベネットがこの企画の元にした、ダンサーたちを集めて、各々のそれまでの人生や、生活を語り合った録音テープとキャストのインタビューや当時のアーカイブ映像を横糸にして作り上げたドキュメンタリー。
  言わでもがなだが、なんとアメリカのショウビズのレベルの高いことか、歌とダンスと演技、共に100点以上のプラスαが表現出来なければ、オーディションに残ることはできないことを実感する。かっての日本のミョージカルの、振付き歌謡劇というイメージから逃れられない自分は、最高のものを一度ちゃんと体感する必要があるんだろうな。沖縄出身の日本人の高良結香がコニー役を獲得して涙組むシーンに、ジーンとしてしまうのは、年を取ったせいだなあ(苦笑)。
   続けて『ホームレス中学生(258)』。ベストセラーが原作で(全く読んでないが(苦笑))、ヒットは、タイトルのインパクトだけじゃなかったんだな。それだけに、ストーリー悪くはないと思う。主人公を小池徹平にしたのも正解。友人役の柄本時生とかだったりしたら、かなり痛い話になったと思う、貧乏くさくて。小池だったら草や段ボールを今は食べていたとしても、将来何だか食べるのに苦労しない感じがする(笑)。
   ただ最近の日本映画見ていて、いつも思うのだか、劇伴(サウンドトラックですな、)が過剰だと思う。多分DVDやTVで見る限りだと気にならないのだと思うが、心理描写的なシーンになると、泣けとばかりに、決まってセンチメンタルなメロディーを、過剰なオーケストレーションでコテコテに飾りたてた音楽が繰り返し使われる。テレビは効果音や笑い声などの音声だけではなく、テロップで笑いどころを説明するような至れり尽くせりなメディアになってしまったが、映画も近頃は、そんななんだろうな。まあ観客が何を求めているのかだから趣味の問題か。
   しかし、この映画は、食べ物の撮影が全然駄目。ずっと何も食べていない主人公にとって、湯気の立つご飯や味噌汁、メンチカツは、絶対オーラが出ていて、だからこそアップでスローモーションにしたと思うが、全く色気がなかった。せっかく、ラストで姉ちゃんが握ってくれた塩むすびも。何だか食べ物にこだわりがない現代の象徴かもしれない。強調しているつもりでも、美味しいシズルに鈍感というか、味音痴というか・・・。もっとも、一番の売りは、小池徹平(22)中学生、池脇千鶴(27)高校生、キングコング梶原じゃない方(28)が大学生。凄いキャスティングだ。でも違和感が全くないのが更に凄い(笑)。
  最後に『アイアンマン(259)』。この映画の肝は、ロバート・ダウニーJR.の目力だろうか。ちょっとマッドサイエンティストが入っている感じ。まあ、さすがハリウッド映画、敵味方の色分け、薄っぺらいなー。でも、エンドロールの最後に続きがあります。と字幕入れておいて、全部見させた上にあれでは、みんな微妙と突っ込みをいれた筈だ。
 夜は元会社の後輩で他社で働いている2人と元会社の後輩K新宿で食事。気がついたら終電に。

2008年11月6日木曜日

大奥、幕末。どちらも新珠三千代、着物が似合う女優No.1

   午前中睡眠クリニック。
    午後は、神保町シアターで、59年大映京都安田公義監督『千代田城炎上(255)』。材木問屋の娘千鶴(新珠三千代)は、大奥に上がったが、一番身分の低い御三の間の奥女中で、死ぬまで大奥から出られない一生奉公だった。継母が連れ子の妹に身代を継がせようと計ったのだ。
   朝から水汲み、掃除、かまど番。おんぼ日傘の千鶴には辛く、おくら(千石規子)らの苛めも酷かった。自殺しようとした千鶴を、おくらは「お前が死んだら私らの責任になるんだ。」と言って止める。大奥には死ぬ自由もないのだ。
  しかしある日チャンスが巡ってくる。新入りは大奥の皆の前で余興をやらされるのだ。普通は裸踊りをして笑われるのだが、千鶴はいなせな若姓姿で見事な踊りを見せる。千鶴の男装に心を奪われた年寄り稲月(村田知栄子)が世話親となり、表役に出世。大奥には稲月と藤波(角梨枝子)という二人の年寄りが世継ぎのことも含めて争っていた。
  ある夜、藤枝の密書を持った不審者を捕らえて、千鶴は更に中老に出世。だが、千鶴は気さくに、御三の間を訪れ、ここで働いた半年が自分にとって幸せだったと言い、おくらを許し、自分付きの表女中にするのだった。
   その頃、新任の大奥担当老中、安藤伊予守(勝新太郎)と会う。改革を熱く語る伊予守に、千鶴は賭け、藤波の密書を預けた。その密書には世継問題で豊千代君の毒殺の謀議が書かれており、藤波以下30数名が大奥追放となった。稲月の天下となったが、父親が死んで商いが上手くいかなくなった。継母と連れ子の妹が稲月に賄賂を贈って大奥御用を頼んできた。千鶴は稲月であろうと不正は許さないと宣告する。
  ある日将軍家治(三島雅夫)が千鶴の美しさに目を止め夜伽を命じたが、断る。前代未聞の出来事に稲月は、打ち首を命じたが、御三の間の奥女中全員が助命の嘆願をし、騒ぎとなった。御台所は、稲月に里に帰って休んだらどうかと告げる。
  しばらくして、千鶴は伊予守の下屋敷に出掛ける。大奥から貰い受けて妻にしたいと告白する伊予守。千鶴は、祐筆の娘が伊予守に恋慕のあまり寝付いていることを伝えるが、最後には、大奥に入った時に女としての幸せを諦めたが、自分も伊予守に初めて会った時から慕っていたことを語った時、江戸城から急ぎの使者が。大奥の千鶴の居室から火が出たという。慌て帰城する千鶴。果たして火事は、千鶴への想いを断ち切れない稲月がやったことが分かったが、大奥は燃え盛るばかり、火の中に投げ遅れた祐筆を助けに燃える屋敷に飛び込む千鶴。祐筆は助けたものの、稲月は、千鶴の目の前で自害して果てた。その頃千鶴を探し求めて伊予守は、燃え盛る火中をさまよっていた。やっと火から逃れた千の前に、戸板に乗せられた伊予守の姿が。燃え盛る柱が倒れてきて瀕死の状態だ。駆け寄ると名を呼んで絶命する伊予守。
  その後、大奥の再建に尽力した千鶴は、年寄りに任じられた。生涯大奥から外に出ることはなかった。
  とてもいい映画だった。火事のシーン、かなり緊迫感がある。新珠三千代は、やっぱりいいなあ。勝新太郎も、その後の猛獣のようではなくて(笑)、真面目に2枚目を演じている。何だかんだ言って、大奥ものは、時代劇の定番だな。 しかし、何だか、江戸時代、女島耕作のよう(笑)。
   神保町で人になど会って再び、65年東宝・三船プロ岡本喜八監督『(256)』。
   桜田門外の変を題材に、水戸浪士たちと、ある大名の御落胤でありながら、身分の違いで辛酸を舐め、侍として取り立てられることを夢見たある浪人の悲しい時代劇。
   尾州浪人、新納鶴千代(三船敏郎)は、水戸浪士たちの井伊大老の暗殺に協力することで、仕官を夢見た。日々、浪士たちが、桜田門を見張っていても井伊は現れない。相模屋での会合の後、一味の首領である星野監物(伊藤雄之助)は、二十人を超えるメンバーの中に内通者がいるのではないかと疑う。特に怪しいのは、一旗揚げる目的で合流したが、氏素性のはっきりしない新納と、ある藩の300石取りのお納度役の身分を捨て合流した、文武両道に秀でた栗原栄之助(小林桂樹)だ。浪々の身で野良犬のような新納と、人格者で妻子との幸せな生活を送る栗原はなぜか馬が合い、新納は、栗原の家を訪れることも度々だった。
   しかし水戸浪士たちは、栗原の妻みつ(八千草薫)の実姉が井伊家用人松平某の嫁であることを突き止め、新納に裏切り者栗原を斬れと言う。悩む新納、しかし斬らなければ、暗殺メンバーから外すと迫られ斬殺する。栗原は「なぜ俺を?」と問いかけながら、死んでいった。
  新納は初めて相模屋に行った時に、女主人のお菊(新珠三千代)を見て驚く。かって、酔った侍に絡まれていたところを救った、さる高貴な家柄の娘で、家柄の違いで恋の成就が叶わなかった菊姫(新珠三千代)と瓜二つだったからだ。相模屋で酒を浴びるほど呑みながら居続けた末、お菊に勘定と立ち退きを言い渡されたが、金の無い新納は、幼少から世話になった木曽屋(東野英治郎)に無心に行く。荒んだ姿で5年振りに現れた新納に冷たい態度を取る。暫くして、木曽屋に会ったお菊は、新納の屈折の悲しい理由を知る。
 その後、内部通報者が栗原ではなく、幹部の増井惣平(平田昭彦)だったことが判る。栗原は無実だったのだ。激怒する新納に、監物は、冷酷にならなけらば大願は成就しないと言うのであった。
  いよいよ決行の日が近付いた。水戸浪士と新納の接近の噂を不安がる木曽屋を問い詰めてお菊が聞き出したのは、新納の父が井伊直弼だという非情な事実だった。新納は、その事実を知らない。折り悪く、水戸浪士の一人が二人の話を盗み聞きしていた。監物は、決行の日の早朝に新納を斬り捨てる刺客を送ることと、隊の不名誉を隠ぺいするために、記録から増井と新納の存在を削除することを命ずる。しかし、何も知らない新納は、早朝襲ってきた刺客たちを返り討ちに。
   井伊直弼の登城を待ち伏せする監物たちのもとにやって来る新納。驚きながらも、何事もなかったように新納に、井伊の首を上げることを指示する狡猾な監物。大老井伊直弼の一行が桜田門に現れた。記録からは消され存在しないことになっている新納を含めた水戸浪士は、3月3日の節句ながら季節はずれに降り続ける雪の中を、井伊の駕篭目指して走るのだった。
   『にっぽんのいちばん長い日』を思い出させるような、重厚感にあふれた映像が素晴らしい。時に、登場人物の内面にまで切り込む超クローズアップと、水戸浪士たちや、町道場での稽古など、躍動感溢れる集団のシーンとの対比は、岡本喜八監督の技量を十二分に発揮している。 桜田門外、雪が降り続ける中での死闘は、本当に壮絶で、切ない。
  夜は、外苑前の粥屋の喜々で、元会社の後輩KやAと飯。ちゃんぽんに行き当たりばったりに飲むと、2時間過ぎで終了に。

2008年11月5日水曜日

昔の自分と今の自分。

  ポレボレ東中野で、71年東映京都深作欣二監督『博徒外人部隊(250)』。
  浜村組の元代貸の郡司(鶴田浩司)が出所した。出迎えたのは尾崎(小池朝雄)と鮫島(室田日出男)。横浜の港湾荷役をしのぎにしていた浜村組は、東京から進出した大島組と組んだが、港北会との抗争を仕組まれ、組長は死に、郡司は10年臭い飯を食った。大島組は大東海運となって横浜港の全てを握っている。尾崎たちに元組員たちを集めろと命じてから大島組に乗り込む郡司。大島(内田朝雄)と貝津(中丸忠雄)に死んだ親分への香典と散り散りになった子分たちへの迷惑料とで500万を出させた。元の事務所に集まっていると、やはり大島組に潰された港北会の工藤昇(安藤昇)が、大島を襲い返り討ちにあって、血だらけで逃げ込んでくる。医者を呼んで治療してやり、大島組が工藤を渡せと乗り込んできたときも仁義に反することはしないと郡司はつっぱねる。
   集まった元組員に、金を配り、やくざが生きる場所は日本中どこにもない。自分は沖縄に行くと言う。他のメンバーも同意。重傷だった工藤も同行することに。那覇を仕切っているのは港湾をシノギにしている波照間(山本麟一)と繁華街をシノギにする具志堅(諸角啓二郎)という2大勢力だった。
  郡司は、まず米人から脱税ウィスキーを仕入れて具志堅に横流ししているブローカーの日下部(高品格)を締め上げてウィスキールートを奪おうとする。黒人の用心棒達との銃撃戦になり、“イッパツ”(曽根晴美)が死ぬが、拠点になる店は押さえた。
   ウィスキールートを絶ったため、具志堅と波照間が郡司を呼び、単身乗り込むが、間一髪の所を工藤の助太刀で具志堅を倒し波照間と手を結び繁華街のシノギは手に入った。コザを仕切る与那原(若山富三郎)の弟の次郎(今井健二)とイザコザがおき、関(渡瀬恒彦)とおっちゃん(由利徹)が亡くなるが、郡司を気に入った与那原は手を引き次郎を連れてコザに帰る。
   東京から大島組が、沢山の兵隊を連れてやってきた。波照間を脅し、沖縄の全港湾のシノギを互いに分けようという話はまとまった。その話を聞いた与那原は、郡司の前に現れて、大島組に殴り込みを聞いた掛けるといい、郡司たちも助太刀することになったが、大島組に先手を打たれて次郎とともに殺される。いよいよ大島会長が沖縄にやってきた。最後のオトシマエをつけるべく、郡司、工藤、尾崎、鮫島の4人は、大島組と波照間たちの大集団に突っ込んでいった。
   戦後のどさくさを経て高度成長期に入り、社会の安定とともにヤクザ達の居場所が無くなり、新天地として、当時、未だ占領下にあった沖縄に、活路を見つけようとした郡司たちの姿は、ヤクザ映画の博徒、侠客といった存在がリアリティを失い迷走する東映の姿だったのかもしれない。沖縄の人間の表層的な扱いを見ても、沖縄ロケをしただけで重要な作品とは言えず、その数年後に爆発的にヒットした『仁義なき戦い』につながる習作というところか。沖縄は、正にその後の実録ものでも取り上げられたように、本土の暴力団の代理戦争の場となった。
   渋谷アミューズCQNで大林宣彦監督『その日の前に(251)』。
   イラストレーター日野原健太(南原正隆)の妻とし子(永作博美)が、不治の病にかかった。息子2人には元気なお母さんをみせたいからと言って、子供の見舞いを断るとし子。
  最後の外出になるかもしれない日、とし子は、イラストレーターとして成功し何人もスタッフを抱えるデザイン事務所を抱える健太が、何も仕事がなかった時に結婚して初めて2人で住んだ街を訪ねてみたいと言う。電車に乗って街に着くと、駅前のマーケットは無くなり只のロータリーに、商店街もシャッターがしまり寂れている。でも、とし子は楽しそうに、昔の思い出を語っている。ケーキが美味しいと聞いて入った喫茶店で、店の女の子(宝生舞)に、ストーカー化したDV夫(小日向文世)が刃物を出した時も、とし子は身を挺して守る。そんな妻を健太は心配そうに見守る。とし子の病気に何か自分に責任があるかのように。
  入院が決まった時も、とし子は、やけに元気だった。自分の服や歯ブラシや小物を処分し、自分のアルバムさえ捨てようとする。健太に「愛人がいるなら紹介してくれ。健太と子供のこれからを頼むから」と言ったり、健太の喪服さえ用意してあるのだ。喪服のポケットにその時の夫宛ての手紙まで入れていることを知って健太は怒った。
   いよいよ、その日がやってきた。前の晩、健太は息子たちに話す。上の子は耐え、下の子は泣き出す。3人で一つのベッドに寝て、健太は朝ご飯を作る。とし子がよく作るクロックムッシュだ。病院に向かう途中、下の息子は、タンポポの綿帽子をお母さんに持って行っていいかと聞く…。
   大林宣彦って、やっぱりロマンチストなんだなあ。とてもセンチメンタルな話。正直なところ、監督のそう言う部分が強く出た作品(『さびしんぼう』とか…んー、ほとんどそうか(苦笑))は苦手だった。今回もずうっと南原に違和感を感じていた。しかし、敏子が亡くなって3ヵ月後に看護婦から「忘れていいから」とだけ書かれた敏子の手紙を受け取って号泣する場面で、全く遅ればせながら南原でよかったんだと思う。それからは、息子2人との会話や、最後の花火大会のシーンめ、自然と受け入れることが出来た。年取ったのかなあ。あるいは大人になったのか(笑)。
   また、宮沢賢治が盛り込まれている。賢治の亡くなった妹に宛てた詩があり、妹の名は、とし子。彼女の出身地が岩手だったりする。劇中にチェロを弾きながら歌うクラムボンという名の美少女(原田夏希)が出てきて、その曲を作ったのはご丁寧にもクラムボンだ。
   神保町シアターで52年松竹京都大曽根辰夫監督『旗本退屈男 江戸城罷り通る(252)』。
   直参旗本の早乙女主水之介(市川右太衛門)は、退屈している。妹のお菊(岸恵子)や爺がやきもきしても、叔父の老中松平左近将監(市川小太夫)の娘萩乃(井川邦子)が思いを伝えに来ても、いつも逃げ出すばかり、今日も吉原で居続けだ。小僧のチョロ松(かつら五郎)が、将軍の御落胤が江戸に現れて真偽が話題になっているとの話を聞き込んできた。小姓の霧島京弥(宮城千賀子)を連れて、御落胤徳川浄海坊(高田浩吉)の行列に馬で突っ込んで顔を確かめる。主水之介は偽物だと確信を持つが、浄海坊が持参した証拠は本物だ。その夜、主水之介は、黒覆面の集団に襲われている男女を救う。家に伴い事情を聞くと、男も将軍の落しだねで、一目だけでも父親である将軍の顔を見たくて、江戸に出てきたという。主水之介は陰謀の匂いを感じ、京弥に女装させ、浄海坊の宿に潜り込ませる・・・。
  チャンバラ映画の王道。天下御免の向う傷ってやつだな、早乙女主水之介って、今じゃ読めないだろうな。さおとめもんどのすけ。 時代劇映画はあっても、チャンバラ映画は無くなった。スウォード・アクションだもな。他には、忠臣蔵と、幕末ものと、大奥もののみ。
   59年宝塚映画久松静児監督『飛びっちょ勘太郎(253)』。長谷川伸原作。
   飛びっちょの勘太郎(森繁久弥)は、渡世人。男に苛められる女を見ると、間に入らないと気が済まない。面子を潰したと逆恨みされ命を狙われるのも度々だ。
  勘太郎は、もともと中間だった。許婚の雪乃(峯京子)に、侍の大塚雄之助(丹波哲郎)が横恋慕し、祝言の日に酔って現れて、義父と雪乃を斬って、逃走したのだ。そのかたきを討つために、血の滲むような少林寺拳法の修行をして、雄之助を探して旅をしている。
   途中、目明しのやらずの留吉(藤山寛美)と知り合う。留吉が追っている女掏り、見返りのお柳(淡路恵子)や、旅芸人の女たち(島倉千代子)らを助け、雪乃に生き写しのお鶴が、かんのん忠治の親分(曽我廼家明蝶)の取り立てに苦しめられているのを逃がしてやったりする。
   やっと、磊落して賭場の用心棒になっている雄之助に出会う。追い詰め、仇を討とうとした時に、お鶴が止めに入る。雄之助とお鶴は夫婦になっていたのだ。わずか10両で女郎屋に売り飛ばした雄之助をかばうお鶴のお腹には、雄之助の子供が・・・。
  勘太郎強い強い。刀や長ドスを持った相手が何人いようが、徒手空拳で相手を倒す。しかし、森繁の身の軽いこと軽いこと。何だか、駅前シリーズのスケベ親父や渋いご老人になってからのイメージしかない自分には、駆ける、飛ぶ、自由自在な細身の二枚目が森繁とは・・・。そうそう、藤山寛美も細身で、よく動く。森繁、寛美の掛け合いの台詞の達者さ。ちょっと拾い物だった。『警察日記』に幼女役で森繁と絡んでいた二木てるみが、少し成長して、子供の巡礼として出演。もともと長谷川伸の原作で、ストーリーもよく出来ている・・・。
   シアターN『ロック誕生(254)』。水曜日で1000円だからか、満員で驚く。
   1970年初頭の日本のロックに関するドキュメンタリー。インタビューは、内田裕也、ミッキー・カーチス、近田春夫、遠藤賢司、中村とうよう、加納秀人、森園勝敏。ライブは、フラワー・トラベリング・バンド、頭脳警察、はっぴーえんど、イエロー、遠藤賢司、ハルヲフォン、ファー・イースト・ファミリー・バンド、村八分、クリエイション、四人囃子。
    すべて懐かしいし、自分には、初めて見る映像も沢山あったが、何だか不完全燃焼というか、ドキュメンタリー映画というには、あまりに表層的で浅い。ちゃんと検証するのであれば、1時間枠1クール位必要ではないのか(笑)。比較したら可哀そうだが、マーチン・スコセッシの『ブルースの誕生』に比べて、あまりにお手軽だ。インタビューを受けている顔ぶれは悪くないが、ワイドショーのコメント取材ではないんだから、もっと掘り下げて聞くことはあるだろう。ただのジジイの昔話や自慢話にしか聞こえないから、観客から失笑が漏れていたのではないのか。ミッキー・カーチスの「面白いことが随分あった。まだ言えない。なんせあの頃は、セックス、ドラッグ、ロックンロールだったから。」という言葉の中身こそ重要なのではないのか。
  70年前後に何があったのかに、真剣に迫ろうとした“いま”の映画は、自分の知る限り、若松孝二監督の『実録、連合赤軍』くらいのものではないのか。「あの頃はよかった。自分も若かったし、けっこうやったよ」というオヤジたちの昔話と、「昔は、何だか面白かったみたいで、うらやましいなあ」という日常の閉塞感に嫌気がさしている若造の現実逃避ばかりが、日本中に溢れている。自分のこのブログのように(苦笑)。

K

  昨日朝起きると、Kの逮捕の話で持ちきりだ。10年ほど前には、時代の寵児として、あれだけ持ち上げておいて、寄ってたかって大騒ぎ。まあ、かって一世を風靡した有名人の没落は、落差が大きければ大きいほど、この景気も悪く、将来への希望なんて全く持てない日常に、お誂え向きの話題を提供してくれたということだろう。 しかし、そんな刹那的な話題で気を紛らわすよりも、もう少し真剣に考える必要のあることはもっとある筈だが。
  Kは、中学の同級生だった。その頃の自分は、人と違った何か凄い才能を持っている筈だと思いながら、それが何なのか見つからない、世の中でもっとも不幸な人間だと思っていた。そんな頃、友人と組んでいたバンドで、はっぴいえんどや、頭脳警察、はちみつぱい、岡林信康など、独りよがりな選曲で赤っ恥な演奏をしていたが、ピアノの音が欲しいと、Kに頼んで弾いてもらっていたのだ。その後、別々の高校に進学、デビューが決まったとか、だれそれのバックバンドにいるとか風の便りは聞くが、本当に何年かに一回、地元の駅で偶然顔を合せるくらいだった。
  大学を出て、音楽業界の末席に潜り込んで、毎日こき使われているころ、彼のバンドのデビューを知る。しかし、その後、彼の自叙伝に、「ぼくの中学時代は暗黒だった」という一行で片付けられているのを立ち読みして驚く。その後の成功はご存じのとおり。相変わらず音楽業界の末席のままの自分は、幸いにして、ニアミス程度で、彼に暗黒時代を思い出させるには至らなかった。
 盛者必衰の理と一言で片付けられないほど、色々なことがあるのだろう。急に寒くなった夜に、留置場にいるであろうKを考えると、中学生の時の小柄で育ちのよさそうな詰襟姿が思い出された。

2008年11月4日火曜日

久松静児遺作、増村保造処女作。

  午前中は赤坂でメンタルクリニック。早く終わったので、一件用事を済ませ、
  神保町シアターで、65年東京映画久松静児監督『花のお江戸の法界坊(247)』。久松監督の遺作らしい。法界寺の法界坊(フランキー堺)は、初代法界坊(榎本健一)に命じられ、江戸で鐘堂の建立の寄進を募ってくることになった。江戸の町の掃き溜め長屋で、占者の七面堂九斉(有島一郎)や辻居合い抜きの松井玄水(田崎潤)駕籠かきの権三(山田吾一)弥六(谷晃)、キン婆(菅井きん)、茶屋の娘お菊(岡田茉莉子)と元岡っ引きの佐吉で実は木鼠小僧(平幹二郎)の兄妹たちと貧しく賑やかに暮らしている。ある時、札差永楽屋の一人娘おくみ(榊ひろみ)を匿う。おくみは、家に要之助という侍(三木のり平)が待っており、ぜひ嫁にとしつこく迫るのを嫌がっていたのだ。父である永楽屋松右衛門(伴淳三郎)は、娘を探させるが見つからない。今江戸中を義賊木鼠小僧が騒がせている。要之助が伴っている浪人青山喜平治(山茶花究)は、佐吉お菊の父が残した鯉の屏風を狙っている・・・。
   岡田茉莉子の着物姿は、先日の柳生武芸帳の“りか”よりも数段いい。演技がよくなったというだけでなく、武家の娘の秘めた演技よりも、町娘のちゃきちゃきしたセリフの方があっていると思う。時代劇は合わないと思っていたが、直ぐに撤回。
   阿佐ヶ谷ラピュタ、62年松竹大船篠田正浩監督『涙を、獅子のたて髪に(248)』。水上三郎通称サブ(藤木孝)は、横浜港の港湾労働者を管理する会社の木谷哲郎(南原宏治)に可愛がられているチンピラである。サブは戦災孤児で、4歳の時に空襲から自分を守るために足が不自由になった木谷を信頼しきっている。
  ある時労働者たちは賃金のアップを求めてサボタージュする。木谷は首謀者の林(高野真二)に交渉しようと誘い出し事故死に見せかけて殺す。社長の松平(山村聡)に相談して、一応賃金は少し上げて。松平の妻玲子(岸田今日子)は、かって木谷の恋人だった。性的不能者の松平に玲子をあてがって自分の道具にしたのだ。連日、松平と玲子はパーティーやクルージングなと社交しているが、労働者たちは虐げ、搾取され、中島(永田靖)や若い加賀(早川保)たちは、何とかして組合を作ろうとしていた。
  ある時サブは山下公園で野良犬に困っていた娘と仲良くなった。彼女はレストランかもめのウェイトレスのユキ(加賀まりこ)。二人は親しくなり、サブの誕生日にユキが料理を作ってくれることになった。組合結成のリーダー中島を殴って脅せと命じられたサブだが、中島は死んでしまい、ユキの元には行けなかった。加賀は、かもめの常連で、ユキを愛していたが、ユキの気持ちはサブにある。
    木谷に言われて会社の代表として中島の葬儀に行くと、なんと中島はサキの父親だった。それ以来鬱ぎ込んでいるサブを木谷は松平邸のパーティーに連れて行く。戸惑いながらも、木谷に命じられるままロカビリーを歌うサブ。玲子は、そんな純真なサブを誘惑、更に木谷の不自由な足はサブとは無関係であることを告げる。2人の関係は木谷にバレ、目の前に現れる。玲子は、サブが自分を誘惑したのだと言い、恐怖のあまりサブは木谷を殺してしまう。
   その頃、加賀はサブの弟分のトミィ(田中晋司)を締め上げ、中島を殺したのがサブであることを白状させていた。中島から電話で真実を告げられ埠頭に走るユキ。一方サブも、ユキの姿を求めて走っていた。全てを知ったユキの前に現れるサブ。「殺すつもりはなかった。中島がユキの父親とは知らなかった。木谷が悪い人間だとは知らなかった。」と警官に連行されながら、悲痛に叫ぶサブ。海を見続けるサキ。
   篠田正浩の凄さを思い知らされる作品。モノクロの計算されスタイリッシュな映像の中に、港湾労働者達の群像が成立している。それは、埠頭を俯瞰で捉えたサボタージュする労働者たちのショットや、貨物船の荷積みの最中に、怒りに燃えた集団がトミィを吊し上げるシーン、秘密集会に、一人づつ集まってくるシーン、逆に松平邸のパーティーに集う人たちが薄っぺらな表情で空虚な会話をしているシーンとは全く対照的だ。独立した台詞のない役まで、ちゃんとした役者を使っているのは勿論だ。個人的には、加賀まりこが、横浜の街を全力疾走しているシーンと、パーティーで、藤木孝が「地獄の恋人」という曲を自分の手拍子だけで歌いきるシーンが最高だった。藤木は、ウェストサイド・ストーリーのジョージ・チャキリスを思わせる。脚本は篠田正浩、水沼一郎、寺山修司。
   57年大映東京増村保造監督『くちづけ(249)』。 大学生の宮本欣一(川口浩)は、選挙違反で捕まった父親(小沢栄太郎)の面会で拘置所にやってくると、面会室から泣きながら出てくる娘(野添ひとみ)を見かけた。父親は3度目の逮捕で虚勢を張っているが、小声で10万円の保釈金を用意してくれと言う。帰り際、差し入れの売店で手持ち金が足りなくて困っている娘に、自分の金を出して、「返さなくていいから。」と去る。娘はそう言う訳には行かないと追い掛けて来る。   
   2人意地の張り合いだったが、そのお金を競輪に掛けて、穫ったら1日遊ぼうと欣一は提案する。娘の生まれ月を賭けると大穴が来て、2人で終日過ごすことになった。娘は白川章子といい、母親が結核で長患いになり、官吏の父親が、入院費のために役所の経費を使い込んで逮捕されており、使い込み額の10万を返せば、保釈になりそうだという。入院中の母のためにも、父を保釈させたいが、10万円という金額は章子には大金である。その日は、競輪の配当金で、カレーライスを食べ、友人からバイクを借りて江ノ島に遠出する。海水浴、ローラースケートなど二人は楽しむが、章子がモデルをしている画家の道楽息子大沢がちょっかいを出してきて、欣一は殴られてしまう。結局、些細なことから江ノ島で別れて帰ることに。
 欣一は、江ノ島で3年ぶりに母親(三益愛子)に会った。父親の政治狂いに愛想をつかして出て行った母は、結構優雅な生活を送っているようだが、父親の保釈金を出すつもりはないと言う。車のナンバープレイトで、母親の住所を調べて訪れる欣一。母は驚くが、欣一自身を担保にするなら1年間10万円を欣一に貸してもいいと言って小切手をきってくれた。
 父親の弁護士のもとに行くが、既に選挙違反3回目の父親の保釈は、相当先になるだろうという。考えた末、章子に小切手を渡そうと決心する欣一。しかしその頃、章子は、大沢に貞操を捧げることで、10万円借りようとしていた。交換した住所も無くし、途方に暮れる欣一だが、苦心の末、章子のアパートにたどりつく。今しも大沢の手にかかるところであった。欣一はかなり殴られるが、最後に捨て身になった欣一を前にして、大沢は捨て台詞を吐いて逃げていく。小切手を貰う理由がないという章子、欣一は章子に口づけをして「これで理由が出来ただろ」と言う。素直になれない欣一に、章子は「何で私を愛しているから」と言えないんだと責める。欣一は、やっと章子が好きなんだと告白して口づけをするのであった。
  増村保造のデビュー作。才能の片鱗は隋所にあり、充分楽しめる映画だが、過大評価はどうかなー。野添ひとみ可愛い。でも、その後に川口浩と結婚、三益愛子は川口浩の実母、原作の川口松太郎は、大映の役員にして三益愛子の夫で、川口浩の父。「増村君。色々事情のある映画でよければ、一本撮らせてやる」ということか。まあ、どこにもよくありがちな話である。

2008年11月3日月曜日

映画館居続けの一日。

   シネマート六本木で、『ヨコヅナマドンナ(243)』。マドンナの「ライク・ア・ヴァージン」を聞きながら化粧をしている子供の場面から映画は始まる。オ・ドングは、高校1年生。彼の父は、元ボクサーだったが怪我で挫折、パワーシャベルの運転手をしているが、毎晩酒ばかり飲んで暴れている。ドングと弟を残して母は家出してしまった。彼は将来性転換をすることを夢見て、港で荷役のバイトをして貯金をしている。日本語教師(草彅剛)に憧れていて、いつか愛を告白すると心に決めている。夢にも出て来るが、そんな時に夢精してしまう男の自分が恨めしい。
   親友ジョンマンは、何をやっても続かず、新聞部に入ったと思ったら、漢字が書けないので、今度は高額な奨学金目当てにシルム(韓国相撲)部だという。彼に付いて部室に行くと顧問の先生が、身体つきや名前がシルム向きだと言われる。ジョンマンは直ぐに辞めたが、オ・ドングは奨学金を性転換の資金にしようと入部するが、風変わりな先輩ばかりだ。ダンスを教えろと言う先輩、勃起すると身体がくの字に固まって動かなくなる先輩、極度のくすぐりたがりで組むことも出来ない先輩、みな3年生だが、他人に心を開かない主将以外は全く弱い。最初、ランニングなど直ぐにへばって付いていけなかったが、足腰だけは強靭で、弱い先輩たちは歯が立たない。ドングはシルムの本を見るうちに、逆さ投げという技に憧れる。ある時、日本語教師がドングに声を掛け、試合頑張れと言ってくれる、ドングはルンルンだ。練習試合は、ドングたちキョンウォン高校は完璧に叩きのめされる。主将でさえライバルに逆さ投げを喰らう始末。
   父は社長を殴って怪我をさせ首に、家庭では荒れるばかりだ。ある時ドングは家出してロッテワールドで働く母に会いに行く。両親の不和の原因の一つに息子の性同一性障害も関係しているがもしれない。ある日憧れの日本語教師の結婚案内をジョンマンが持って来る。ショックを受けたドングは、直接先生に告白するが変態扱いされてしまう。落ち込むドング。更にシルムの全国大会の案内を父が見てしまい、出場を絶対許さないと暴れ出す。そんなドングに母は、これからの人生はドングか考えているよりも過酷だろうが、自分は応援すると言ってくれた。
   その後父は会社の親友が脳梗塞で倒れ、社長に頭を下げて代わりに雇ってもらう。再出勤の日、パワーシャベルの前に母親のワンピースを着て化粧したドングが立ちはだかった。こんな大事な日をぶち壊してと父は激怒、パンチが炸裂、しかし、ドングは父を逆さ投げで10m位(笑)投げ飛ばす。繁華街で座り込んで呆然としているドングの前をハイヒール、網黒ストッキングの女が通り過ぎ、顔を上げるとマドンナだ!追い掛けるとその金髪の女性は消えていた。ふと高校シルム全国大会のフラッグに目が行く、友人のジョンマンのバイクに乗せて貰って会場に急ぐ。棄権直前に間に合った。その頃、ロッテワールドで働く母の前に父が現れる。全力で逃げるが捕まった母に、ドングにどう接したらいいんだと言う父。
   試合直前のドングの前に現れる父は、酔った時の口癖の、ガードをきっちりして相手をよく見て打てと、的外れなアドバイスをする。ドングを始めキョンウォン高校は全員初戦を突破する。更に、決勝戦に、ドングと主将が残った。1Rずつのイーブンで迎えた3R、2人の疲労は極限に。最後に主将がドングを投げようとして持ち上げた時、彼の目の前にドングの鼻の下のホクロに生えた一本の毛がそよぐ…。
 なかなか楽しかった、最近の韓流映画の中では一番楽しめたかも。でもこれは06年の作品だったんだなあ。最後のライク・ア・ヴァージン良かった。太った“はるな愛”という感じ(笑)。
   続いて、『男女逆転 吉原遊廓(244)』。吉原の遊郭に、見目麗しい男の花魁が女性の客を迎える菊下楼という店があった。そこの看花魁の鷹尾太夫と、吉原の付け火の犯人に兄を殺された娘お花が男装して潜入、また太夫につれなくされて逆恨みの女(西本はるか)やナンバーワンの座を狙う薄雲は…。
   うーん予想通り、別に娯楽時代劇だから、時代考証とかヤボは言わないが、それにしても(笑)。No.1は花板、№2は2枚目って?!調理人?役者?。またロケは日光江戸村だから、吉原の後ろには山々が青々と、廓の前の道も人通りなく、雑草が生えているし、吉原っていうよりも、どっか街道の旅籠の岡場所だ!! 娘がかたきを討つ為に懐中から出したのは小太刀ではなく、何故か緑色に塗って飾り紐の付いたドス!?  鷹尾!鷹尾!ってみんな呼ぶけど、それなら太夫だろ、看板を呼び捨てかー。またキセル吸うなら煙草盆。そこら辺でひっくり返してポン、火事になるぞー。野外シーン、鶯が鳴いたと思ったら、アブラゼミ、次にはヒクラシが、正に異常気象。遊郭にいる男衆は、たった1人、番頭かと思ったら男花魁から親分と呼ばれている、主人だったのか。年季明けと言うが娘は自分で働かせてくれとの飛び込み、借金とかないんじゃないか。年季奉公じゃないだろ。尤も口をきけない若者を飛び込みで雇うとは、口入れ屋の紹介とかないと…。また大枚はたいてと言う割に、小判4,5枚、大盤振る舞いと言うなら切り餅だろ。だっちゅーのの西本はるかが男を買う、いつも同じ着物はいいとして、寝ていても着物を着たまま、帯のお太鼓とか潰れるだろ。昆布巻きでいたすのか。箱と言えば箱枕、髷を崩さないために首を載せる筈なのに、今の枕風に後頭部乗せたら意味ない。枕元に二升徳利と湯呑み茶碗、ここは吉原じゃなかったか。お花が花魁となり、花魁道中をすると主人は言うが、ただの各部屋のお馴染み客に挨拶して回りだす・・。更に、お花は頭に紫のハチマキを巻いているが、ありゃ飾りじゃなくて助六とかも巻いている頭痛鉢巻じゃないのか?と思ったらそこは微妙なんだな(苦笑)。まあ言い出したらキリが無く、江戸時代間違い探しゲームの再現フィルムとしてかなり使えるのではなかろうか(笑)。
  川崎市民ミュージアムで、74年疾走プロ原一男監督極私的エロス 恋歌1974(245)』。『ゆきゆきて神軍』のドキュメンタリー監督原一男の出世作。原の恋人武田美由紀が、2人の子レイを連れ、スガ子と暮らすと言って沖縄に出て行ってしまう。未練たらたらな原がドキュメンタリー撮影を口実に密着すると美由紀とスガ子は喧嘩ばかりして別れることに。美由紀は、男と女の関係はセックスが介在することで楽だが、女と女は難しいと言う。コザの街で、14歳の少女チチに会って裸とインタビューを撮ったり、コザで黒人兵と暮らす熊本出身の女が、バーのママに怒鳴り込むのに付き合って、彼女の壮絶な人生を聞いたりして帰る。
   美由紀は黒人兵のポールと同棲、妊娠2ヶ月、「混血児だからこそ産みたい。原くんに取材させてあげる。」という手紙が来て、原が出掛けると、カメラを挟んで言い争いになり、原は泣き出す。しかしポールとは2週間後に別れる。共同制作者の小林佐知子を美由紀は邪険にする。やっぱり面白くないらしい。次に沖縄に来た時に佐知子は原の子を妊娠しており、美由紀と佐知子は原との割り切れない思いを吐露する。しかし原のカメラは怒る美由紀と落ち込む佐知子を交互に写すだけだ。美由紀はAサインバーの栄子が産んだケニーという混血児を育てようと思うが、見つけることは出来なかった。美由紀はコザを去り東京で子供を産むことにする。最後に彼女の沖縄についての文章を纏めたビラ(見たところガリ版の小冊子のようだが、)を知人や、コザを歩く女たちに配る。知人はともかく街を歩く女たちからの反応は冷ややかなものだ。美由紀は、ビラを路上に並べ始めたが、地元のヤクザから「あることないこと書きやがって」「沖縄の悪口を書きやがって」と言ってビラを捨て殴られた。美由紀は「ないことなんか書いていない。全部自分が体験したことだ。私がウチナンチュだから駄目なのか」と言う。いよいよ美由紀が沖縄を離れる日が来る。埠頭まで見送りに来たのは、スガ子1人だった。
  美由紀は原のアパートの部屋で子供を産む決心する。佐知子はマイクを美由紀に向け、美由紀は、出産の全てを、カメラの前で行う。原は何か起きたらどうしようかと、カメラのピントもはずれがちだ(これは、本人のナレーションで説明されたが、意図的にピントを合わせていなかった可能性もある。なんせ、股間の前に三脚を立てて一部始終を撮影しているのだから)。美由紀は、その後、女たちのコミュニティーを作り、佐知子の出産もそこで行われ、原の手によって撮影されることに。今風に言うと、元カノと今カノとカレシによる出産の記録で終わる。こんなものを10代で観てしまったことが、現在の自分になってしまった沢山の失敗の内の一つ(苦笑)。ピント合っていないとはいえ、出産の最初から最後まで、それも前の女と今の女。あれだけお互いを認められなかった2人が、出産の時には共に戦う同志のような顔になる。それに対して、正視出来ず目が泳いでしまう男。あまりのインパクトに忘れていた映像が一瞬にして甦った。あれだけ現実に苛立ち迷走し、強がった発言ばかりしていた美由紀が、急に自信に溢れた“堂々人生”(笑)。やられたなあ。
   しかし、この映画はプライベートフィルム 。当時、新しい形のドキュメンタリーとして衝撃を与えたが、現在AV業界で、平野勝之、カンパニー松尾、松江哲郎ら一部の監督が、カメラの手前側にいる自分の人間性をさらけ出した作品を撮っているが、その元祖かもしれない。勿論、性欲の喚起を目的に作られたものでないことは言うまでもない。しかし、それまでのドキュメンタリー映画が岩波映画のように、人間の生き方や、そこにある現象や事件を映像として記録することによって、社会に広く訴えることを目的としたものとは違う。今、ビデオ、携帯電話のカメラの動画収録という手段で、誰もが撮影して、自分の人間をさらすことが可能な嬉し恥ずかしのプライベートフィルム。それが、35年前に制作されたということが、革新的だったんだろう。
   ポレポレ東中野で68年日活今村昌平監督『神々の深き欲望(246)』。南西諸島のくらげ島という架空の島を舞台に。神、信仰、共同体、血縁、近親相姦といったプリミティブな人間の営みを、今村昌平らしく暑苦しく、こってりと描いている3時間に及ぶ傑作だ。
  くらげ島に東京から製糖会社の会長の娘婿の技師がやってくる。くらげ島の唯一の産業でもある砂糖きびの今後を左右しかねない、部落の長である竜元(加藤嘉)は気が気ではない。島のはずれに、太(ふとり)という一家が住んでいる。家長は老人山盛(嵐寛寿郎)、長男根吉(三國連太郎)、長女ウマ(松井康子)、次男亀太郎(河原崎長一郎)、次女トリ子(沖山秀子)。彼らは、神に仕える一家であったが、戦争から戻った根吉(三國連太郎)が、葉っぱの密輸や部落中の女に夜這いしたことで、村八分のようになっている。また、近親相姦の噂があり、トリ子の精神の発達が遅れているのはそのせいだとみな噂している。20年ほど前に大嵐が島を襲った時に、巨大な岩が、一家が任せられていた神様に供える米を作る田んぼの上に乗り上げてしまった。これは、根吉の罪の報いだとされ、妹であり妻であったウマは竜元に引き取られ、根吉は鎖でつながれ、この穴を落とす為の大穴を掘っている。
  技師刈谷(北村和夫)は、前任の島尻(小松方正)が全く連絡をしてこなくなったので、とかげ島の砂糖事業の継続を検討するためにやってきたのだ。竜元は、亀太郎を技師の助手にして、不都合なことなどを隠ぺいしようと考える。島には水源が少なく、また降雨がなく、著しい水不足に陥っていた。水源の開発が、事業継続の絶対条件だが、案内された場所は工場まで5キロはあって、役にたたない。
 島は、巫女にあたるムロや祭りなど古い因習に縛られ、刈谷の調査は全く進まない。島尻も、東京に妻子がいるにも関わらず、未亡人を妻に子までなして、この世界に取り込まれてしまっているようだ。ムロの頭であるウマは、竜元に言われ、刈谷に夜の伽を申し出るが、拒絶され竜元に折檻を受ける。あるとき刈谷は、水音を聞き、制止を振り切ってたどり着くと、ムロたちが神に捧げるための井戸であった。
 刈谷はなんとか、仮調査をすることだけ竜元に認めさせるが、毎晩調査の妨害が起こる。実は、竜元の意を組んで、根吉がやっていることだった。刈谷は、機器の横で野宿することにした。老人は、トリ子に酒を届けさせ、根吉たちに婿取りじゃという。なんとか、トリ子の誘惑に打ち勝った刈谷だが、苦し紛れに、海岸で会う約束をしてしまう。すっかり約束を忘れてしまった刈谷だが、トリ子が何も食べずに海岸にいると聞いて、行ってみると果たして、ぐったりとしたトリ子が。彼女の気持ちに刈谷は応え、太家に同居して、生活を共にする。だんだん島の生活に取り込まれ、太家の一員となりきっていく刈谷。老人が急死。葬儀の後、ウマが口寄せをすると、トリ子に憑依。激しく苦しみながら、呻くように喋り出す。根吉には「岩を落とす仕事をまじめに続けろ」と、刈谷に「トリ子を捨てるな」と、亀太郎には「森を恐れよ」といつもとは全く違う口調で伝えるトリ子。
  ある日精糖会社会長が来島することになり、竜元は、無理矢理刈谷を技師の仕事に戻す。その後、刈谷は、トリ子のもとに必ず戻ってくると約束して、東京に戻って行った。
 ウマは神が自分の声を聞いてくれなくなったのでムロの座を、トリ子に譲りたいと言い出したが、竜元は認めず、再びウマを折檻する。島の者を統制する上で、ウマがノロであることは、竜元にとって好都合なのだ。会長の来島によってクラゲ島は、観光事業を始めることになり、飛行場作りのために島民の土地を買うと竜元は言い出した。あれだけこだわっていた太家の土地や、ノロの神聖な場所まで潰すというのだ。根吉もウマも反対し、立ち退きに応じない。島民は、むしろ根吉たちが、ウマが竜元の妾であることで儲けており、立ち退き料の吊上げを狙っていると噂するのであった。
 久し振りに、島のドンガメ祭に亀太郎が参加することを許された。しかし、ノロを降りると言って聞かないウマを、激しく責めていた竜元は急死、ウマに会いに来ていた根吉。竜元の妻ウナリ(原泉)は島民に、根吉が竜元を殺したのだと嘘をつく。そのころ、根吉とウマは二人で、西の無人島に向かって亀太郎が直した船舶エンジンを取付けたサバニを漕ぎ出していた。無人島で二人は、家を建て、田を耕し、新しい生活を始めようと思っていたのだ。しかし、島民は、二人を追討するサバニを出した。漕ぎ手の中には、亀太郎の姿もある。 根吉は殴打して海に捨てられ、ウマは帆柱に縛り付けられサバニごと流される。
  5年後、クラゲ島の空港に、小型旅客機が着陸、降りてきた客の中に、刈谷と、刈谷の妻(扇千景)、会長夫人の姿があった。亀太郎が機関士を務めるサトウキビ運搬用の小型機関車の客室に案内される刈谷たち。竜元の後任の長が、案内しながら進む機関車。刈谷とトリ子が会った海岸に、巨大な岩があり、海の向こうから男が帰ってくることをそこで待ちながら死んであの岩になった女の言い伝え があると説明される。トリ子岩というのだ。また、赤い帆のサバニが海を進むのを、島民はみな目撃していると乗り合わせた女は言う。亀太郎は、サトウキビ畑の中走る機関車の前を、トリ子が嬉しそうに走っていく幻影をみるのだった・・・。
  劇中、島のあちこちで蛇皮線を引きながら、島の古い言い伝えを歌っている男がいる。その歌には、島を作ったあとに、完全な身体を欲しいと祈りを捧げ、女を作ってもらって、男女が出来たという一節と、兄と妹の神が愛し合って、色々なものが生まれていったという一節がある。正にそんな神話が今も活きているくらげ島。そこに暮らす誰もが愚かしくて、悲しい。しかし、今村昌平は、それを、上から見たような神の目線で見るわけではなく、あくまでも、登場人物も我々も同じ、森の中を這いまわっている昆虫や爬虫類や鳥類のような目線で描いていく。3時間近い上映時間、今まで何度も観て来たが、全編一度も寝なかったのは、今回が初めてではないだろうか(苦笑)。根吉、亀太郎、刈谷、島尻、山盛、何だか色々な人間が自分に降りてきたような気がして、終演後、やけに疲れていたのだった。

2008年11月2日日曜日

50年代、60年代、70年代。

   昼、同居人と地元イタリアン。 神保町シアターで、57年東宝稲垣浩監督『柳生武芸帳(240)』。五味康祐原作。禁裏(天皇家)と徳川家に関する柳生の秘密が記された柳生武芸帳を巡って、柳生家と、その追い落としを狙う山田風月斎(東野英治郎)との争いと、江戸柳生家の総帥、柳生但馬守(大河内伝次郎)と知恵伊豆と称される老中松平伊豆守(小松明雄)との幕府内の権力争いに、大久保彦左衛門(左卜全)らが絡む。
   霞の忍者霞の多三郎(三船敏郎)は、弓削三太夫(熊谷二良)に鍋島藩から柳生武芸帳を持ち出させたが、柳生十兵衛(戸上城太郎)に襲われ、夕姫(久我美子)に持ち逃げされた。夕姫は、鍋島藩に滅亡された竜造寺家の姫君で、お家再興を夢見る遺臣たちの為に武芸帳を利用しようとしたのだ。多三郎は竜造寺の隠れ部落に乗り込み夕姫を人質にするが、夕姫に惹かれ、また忍者としての生き方に迷いが生じており、十兵衛が村に火を付けたため夕姫を解放して去った。
   その頃江戸の柳生屋敷では、但馬守が嫡子友矩(平田昭彦)と又十郎(中村扇雀)、娘の於季(香川京子)に、鍋島柳生の柳生武芸帳が奪われた話をし、武芸帳は鍋島柳生、禁裏、江戸柳生家と3巻あり、全巻揃えると柳生の秘密が暴かれ一家の存続に関わる旨を伝え、柳生家にある巻き物を開くとなんと中は全くの白紙であった。但馬守は天井に剣を投げる、そこには、武芸帳をすり替えることに成功した霞の千四郎(鶴田浩二)が潜んでいた。屋敷中を追われ、又十郎によって手傷を負った千四郎だが、巻き物を返すことによって、於季の助けによって屋敷を脱出する。
   竜造寺残党は、武芸帳を密かに隠して夕姫と江戸に向かう。大久保彦左衛門か柳生但馬守のどちらかに持ち込んで、お家再興の後押しの取引にしようと考えたのだ。道中、十兵衛に襲撃されるが、多三郎に助けられる。その行為は浮月斎を激怒させる。
  禁裏の武芸帳は隠してあった掛け軸ごと、家光(岩井半四郎)を経て彦左の手に渡った。危機感を募らせた但馬守は、又十郎に“くの一"の術を施す。くの一とは文字通りくノ一、歯を全て抜き顔の輪郭を変えて女性に変身するという柳生に伝わる恐るべき忍術である。又十郎には、将来を誓ったりか(岡田茉莉子)がいたが、施術を受けて何も食べられない又十郎に口移しで飲食をさせるなど甲斐甲斐しく尽す。又十郎は、竜造寺の夕姫に化けて彦左衛門のもとに潜入、舞踊を舞う。しかし多三郎に見破られ、千四郎と戦ううちに、武芸帳は又十郎と千四郎との手元に真っ二つに。半分を手に入れた浮月斎は千四郎を褒めたが、未だ鍋島柳生版の武芸帳を手に出来ない多三郎を罵倒して破門、千四郎に実兄・多三郎を討つように命じた。真剣勝負の末、兄を逃がした。
  武芸帳に関する柳生の暗躍を知った彦左は、家光(岩井半四郎)に、但馬守をお役御免にするよう注進する。伊豆守は、この事態を巧みに利用しようとする。竜造寺一派の五升賀源太(土屋嘉男)は家老を切り夕姫を監禁して、風月斎と手を組み柳生に戦いを挑むことにしたが、十兵衛たち柳生には洩れていた。十兵衛によって次々に斬殺されていく竜造寺の遺臣たち。そこに駆けつける多三郎。夕姫を救い柳生から逃げる。追っ手が迫る中、激流を流れていく筏の上で、二人は互いの気持ちを確かめ合った。
  まあ、五味康祐の原作でいうとまだ半ば、原作自体五味康祐が無くなったことで未完だ。読み返すのも面倒で、ネットで探っても、うまく粗筋をまとめているものが、ほとんどない。まあ、週刊誌の連載小説だから、毎回見せ場を作らなければならないので、話自体も行ったり来たり、読み取りにくいかもしれないが、自分は、読み始めたら、テンポよくて一気に読んだ記憶があるけどなあ。自分の記憶だと、結構、映画は、よくまとめてある感じがするが、ネット上では、どうも評判は悪い。
  面白かったから、まあいいや(笑)。ただ、くの一はなあ、中村扇雀の女形、舞も含めて本物なんだが、ちょっと顎から頬にかけて髭濃いと見えて青々としている。57年の時代劇だから見事に女となって綺麗だなと思うルール、他にも刀が当たっても金属音がしないとか(笑)21世紀の視線は失礼なんだろう。
  64年大映京都三隅研次監督『座頭市血笑旅(241)』。善光寺詣り講の座頭たち20人程の列を、文殊一家が座頭市がいないか問いただすが、彼らは松の市、杉の市やら自分たちはみな座頭の市だと言って座頭市を助けた。歩く市を駕籠かきが戻り駕籠で安くするから乗らないかと誘う。迷った末、市は駕籠に乗ったが、途中赤子を連れた女(川口のぶ)が差し込みで倒れていたのを見て代わりに載せる。しかし、市が駕籠に載るのを見ていた文殊たちは、待ち伏せてメッタ刺しに。市が駆け付けると、赤子を守るように女は事切れていた。女は宮木村の宇之助(金子信雄)の妻おとよ、夫の借金で身売りされ年季明けで帰るところだった。市は、駕籠かきと赤子を宮木村に届けることに、しかし、旅籠で文殊一家が襲ってきたときに駕籠かきは逃げ出し、結局、市と赤子の旅が始まった。
  目が見えない市が赤子の面倒に苦労しながらも、文殊一家は何度となく襲いかかって来る。途中の賭場で路銀を稼ぎ(勿論、市はイカサマを見破って(見てはいないが・・・(笑))すったもんだがある。) 。
  旅の途中、女掏摸お香(高千穂ひづる)と出会い1日1両で赤子の面倒を頼む。最初は市の路銀を狙って下心があったお香だが、一緒に旅をしながら子育てをするうちに、市を見る目は変わっていった。やっと宮木村に着いた。赤子と別れがたくなったお香は、宇之助に返すのを1日遅らせないかと言いだす。市の本当の気持ちは一緒だったが、実の父親が必要だと自分の心に言い聞かせて、お香に余分に銭を渡して別れを告げ、宇之助のもとを訪ねる。繭の仲買いだった筈が、宇之助は博徒になって一家を構えようとしていた。どこぞの親分の娘との縁談があるらしい。そんな宇之助は、おときやその子供なんて預かり知らぬと突っぱねる。市は、怒りを抑えて、自分の子供として育てようと思うのだ。
  一人生き残っていた文殊の和平次(石黒達也)は、宇之助に市を殺して男を上げろ、市の剣を封じる方法もあると耳打ちするのであった。市は了海和尚(加藤嘉)におときの供養を頼む。これから赤子のためなら何でもしよう思うという市に、和尚は、やくざで渡世人の座頭が旅をしながら連れ歩くよりも、寺で預かって育てる方が、この子のためだと説く。苦悩の末、市は赤子を和尚に手渡す。宇之吉の一家は、炎のついた松明を持って市に襲いかかって来た。炎で音が聞こえず、火が市の着物に燃え移って壮絶な戦いとなる。ただ、市は、見事全員を討ち果たす。赤子に気持ちを残しながら、市の当てのない旅がまた始まった。
   殺陣は勿論だが(特に、最後の着物が燃えながらのシーンはすごい)、赤子との二人旅での泣かせる演技が素晴らしい。それとお香とのプラトニックな情愛。お涙頂戴ではなく、抑えた演出での情感、三隅研次監督と勝新太郎コンビの真骨頂。いきなりシリーズの中で凄いやつを観てしまった。
  ポレポレ東中野で71年東陽一監督『やさしいにっぽん人(242)』。バイクショップで働きながら、バイクでツーリングを続ける謝花治(河原崎長一郎)は、1歳の時に渡嘉敷島の集団自決で生き残ったが、全く当時の記憶はない。ある日彼がツーリングに出ると、警官に止められた。学生との鎮圧訓練をしていたのだ。彼が笑うと、いきなり警官たちは彼に殴り掛ってきて怪我をさせられる。バイクショップの仲間たち(伊丹十三、蟹江敬三、石橋蓮司、横山リエ)たからはシャカと呼ばれている。彼には、劇団の演出家の助手をしている恋人ユメ(緑魔子)がいる。ユメは演出家(伊藤惣一)から渡嘉敷島に取材にいかされるが、そこでの体験を説明する言葉を見つけられない。それは、シャカが自分の言葉を持たず、他者の文章の引用することと共通しているのかもしれない。シャカのアパートでは、育児ノイローゼになった女(桜井浩子)が窓から子供を投げ捨てたり、公衆電話では、老婆(東山千栄子)が孫に遠い世界に旅立つお別れを言っていたり、チマチョゴリの制服を着た女子高生が詰襟の男子学生に陰湿な虐めを受けたり、女(渡辺美佐子)が、死んだ夫の好きだった話と遺書のように残した言葉を独白していたりしている。
  ツーリングの間でも、雨宿りした小屋で、殺人犯とめぐり合せ共犯者と間違えられて撃たれたり、最後には、ガードレールに激突してバイクは炎上だ。 治は、バイクを失ってどこへ行こうとしているのか・・・。
  15,6の小憎の時は、とにかく緑魔子にやられた。なんてかっこいい女性だろうと思った。それだけで、なんてかっこいい映画だろうと思った。しかし、あの70年前後の空気の中ではなく、50の自分が今観るといささか色褪せて見えてしまう。ドキュメンタリー映画監督としての東陽一が、ドキュメンタリー的な映像の中で試みている演出、あえてドラマ的な盛り上がりを排したような棒読みのセリフは時として滑っている感じがしてしまう。スチールのようにスタイリッシュでかっこいいシーンをぶつ切りにつないでいく映像は少し散漫な感じもする。
  よりドキュメンタリーにその時代を切り取った『新宿泥棒日記』に比べて、その時代に生きる人々の迷走を演出のもとで撮影したこの劇映画は、あの時代という環境の中でしか、共有できないのだろうか。今回の上映は、「オキナワ、イメージの縁(エッジ)映画編」という企画の一環であり、上映前にこの企画者の方が、当時の中上健次の映画芸術での評価やその意味などの説明があったが、何か鑑賞するための舞台装置が足りない気がする。東陽一監督の作品は、『やさしいにっぽん人』『日本妖怪伝 サトリ』『サード』と続く3作品は、とても好きだったが、80年代の女性映画『もう頬づえはつかない』『四季・奈津子』『ラブレター』と、どんどん自分の中では、駄目になっていった。それは、ひょっとして映画を観る人間に時代という舞台装置が希薄になっていく過程だったかもしれない。そういった意味で、サトリとサードを改めて見直したいと思う。勿論、スクリーンを通じてだ。