HMV渋谷の閉店を感傷的に語る人は多いようだが、渋谷系と言う言葉を生んだHMV渋谷店は、センター街をもっと奥に入った、今のマルハンパチンコのところのONE-O-NINEビルだったし・・・。(西武セゾン系WAVE渋谷に対抗して、東急系も、CDショップかと当時は思った。セゾンも、WAVEも、PARCOも、西武系じゃなくなってしまったんだよな・・・)
そんな昔話をしたかった訳ではなく、メガショップとCDセールスについて、纏めておきたかったのだ。
レコード店のメガショップ化は、CDという新しいパッケージが浸透した80年代中盤からだったと思う。1983の年六本木WAVEの開店から始まるのだ。レコード、カセットテープという2種のパッケージに加えて、82年にCDが発売された。最初は、何だか小さくて頼りなかったCD(当時は、レコードの商品ケースに小さすぎるということで、縦長の紙のパッケージの中にCDサイズのプラスチックケースが入っていたのだ。)は、次第に、新譜だけではなく、旧譜カタログ商品も、次々とCD化、復刻されることにより、それまで、バカ高かった60年代や70年代初頭の名盤やマニアックな作品が簡単に手に入れることが出来るようになった。それにより、膨大な数のカタログ作品を売る入れ物としてのメガストアが必要になった。その広い売り場を埋めるために、更に沢山のカタログ商品がCD化されたのだ。
店内のセレクションは、それぞれの売り場の担当者に委ねられ、彼らは自分たちなりのリコメンドをコメントカードによって表し、アメリカから入って来た試聴機に入れるCDをチョイスした。売り場の担当者は、バイヤーと呼ばれ、六本木WAVEの各売り場にカリスマバイヤーが産まれた。その人たちが、ヘッドハントされて、HMV やタワーレコードに移って行ったのだ。(皆さん、今、どうしていらっしゃるんだろうか・・・。)
そんな流れで、渋谷HMVが開店し、国内盤の売り場担当のO氏が、JPOPと洋楽を同じ文脈で、陳列していったのが、渋谷系の始まりと囁かれていた筈だ。
CDとメガストアの登場以前というか、70年代初頭までは、カタログ商品と言うのは、アーティストのベスト20とか、珠玉のイージーリスニングとか、日本の各レコードメーカーが適当にコンパイルした2枚組の廉価盤だった。新譜として発売されるレコード以外は、数少ない輸入盤屋や中古レコード店のエサ箱を漁るしかなかったのだ。
そして、日本ではヒットしないと判断して、日本の各レコード会社が発売しない、注目すべきレコードをレコメンドして教えてくれる人は、輸入盤屋をやっている偏屈なヒッビーオヤジや、加藤和彦さんのように海外経験のある大人しかいなかった。
インターネットもなく、海外が遠かった60年代、音楽情報は、欧米のものでさえ、一番早く無い入るのはレーベル契約のあるレコード会社だった。海外の生の情報は極めて少なかった。音楽専門誌の編集者や、ラジオ局のDJの多くは、海外で直接音楽シーンに触れた経験のある人は、たいそう少なかった筈だ。
メガストアの話しに戻る。カタログ作品を集めた、本来はロングテイル・リアル店は、90年代中盤から変質する。95年タワレーコードの旗艦店として現在のビルに移った時に、自分は、不思議な気がしたのだ。そこのビルに架かった巨大看板は、当時ミリオンセラーを連発しているビーイングが年間契約していた。それまで、ロングテール・リアル店だったメガストアは、ミリオンセラーを全国一売る店になったのだ。事前予約者だけ参加できるイベントやグッズのお陰で、発売日には長蛇の列が、宮下公園まで続いた。
1988年に開局したJ-WAVEに奪われていたJPOPへの巻き返しに、1993年、TOKYOFMがパルコに作ったスペイン坂スタジオは、連日、ミリオンセラーのJPOPアーティストをゲストに呼び、それぞれのファンが凄い行列を作っていた。それに対抗して、JWAVEは、1998年の現HMV渋谷の中にサテライトスタジオを作ったんだったな。まあ、そんな渋谷の90年代。確かに、アナログ盤や輸入盤のセレクトショップは無数にあったが、90年代後半の渋谷を語るのに、そんな文化系でなく、深夜に徘徊していたチーマーたち肉食系若者の方が、相応しい気がするのだが・・(笑)。
音楽業界(レコード会社と、そこから多額のアドバンスを貰えるプロダクション)は、この世の春を謳歌していた。TVスポットとビルボードは、数千万単位で売り買いされ、1年後まで予約が入っていた。億の宣伝費を、広告代理店に発注するのが宣伝担当の仕事、CDショップの販売促進費も、それまでは、何万円単位だったのが、何百万、タワーやHMVのメインスペースを押さえるためには、それ以上が必要だったのだ。気がつくと、メガストアは、ロングテールではなく、ヘッドの商品をより多く売る装置になっていたのだ。
(続く)
2010年8月21日土曜日
不眠の中高年は、海岸で半日過ごすだけでも厳しい
鵠沼海岸で、外苑前粥屋店主企画の地曳網。前夜デザイナーN氏と飲んだが、5時前に起き、風呂に入り、貰ったばかりの名前入り甚平に着替えたまでは絶好調だったが、あと1時間大丈夫だと、ウトウトしたら、9時前だ…。慌てて駅まで自転車を飛ばしたものの…。現地に着いたのは11時近く、しかし、地曳網は、その頃ようやく引き揚げられ、佳境となっているのだった。
2時半位に帰ろうと、鵠沼海岸駅まで歩きはじめると、往きは10分ほどで着いたのに、ヘロヘロで歩けない。途中とあるプール付きマンションのロビーで休んだりしながら、30分以上掛ってようやく駅に。
本当は、東銀座で約束もあったのだが、やっとの思いで帰宅し、ダウン。
熱中症一歩手前と言う感じ。不眠の中高年は、海岸で半日過ごすだけでも厳しいのであった。
2時半位に帰ろうと、鵠沼海岸駅まで歩きはじめると、往きは10分ほどで着いたのに、ヘロヘロで歩けない。途中とあるプール付きマンションのロビーで休んだりしながら、30分以上掛ってようやく駅に。
本当は、東銀座で約束もあったのだが、やっとの思いで帰宅し、ダウン。
熱中症一歩手前と言う感じ。不眠の中高年は、海岸で半日過ごすだけでも厳しいのであった。
2010年8月20日金曜日
スタッフ・ベンダ・ビリリ!
日仏会館で試写会、
ルノー・バレ&フローランド・ドラテュライ監督『ベンダ・ビリリ! ~もう一つのキンシャサの奇跡(132)』
2004年12月、コンゴ民主共和国の首都キンシャサ。深夜の町には沢山のストリートチルドレンがいる。彼らは、かっぱらいやタカリなどて、生きている。人から盗んで生きていくのが、ジャングルの掟だと、一人の少年は言う。
2005年5月、同じ場所に、自転車やバイクを改造した車椅子に乗った男たちが、集まって来る。リーダーの男はリッキー。パパリッキーと呼ばれる障害者の自分達が生きていくために、バンド、スタッフ・ベンダ・ビリリを作っているのだ。彼らは、幼い頃ポリオに感染して障害者となった。身体障害者シェルターで暮らしている。そこには彼らの家族も暮らしているが、皆路上生活とほとんど変わらない生活だ。キンシャサの子供たちは、子供同士博打をし、その日暮らしだ。そんな子供たちに、音楽で生計を立てる術を教えるリッキー。彼らの歌のテーマは、日常の生活から生まれた力強いメッセージだ。トンカラ(ダンボールのこと)の上で、寝起きする生活を歌った“トンカラ”、自分たちのようなことが起きないように、母親に幼児にポリオのワクチンを飲ませてくれと言う“ポリオ”、ギタリストのココが歌うコンゴの大河プールマレボ(?)の両岸で別れ別れに暮らす妹を歌った歌“マルガリータ”
ある夜、ドキュメンタリー映画のクルーは、空き缶と一本の木と針金で出来た自作の楽器を演奏すことで、生きて行こうとしている13歳の少年ロジェに出会い、リッキーに紹介する。リッキーは、俺が時間を掛けて仕込めば、ロジェが将来優秀なリード・ギタリストになるだろうと言って、メンバーに加えた。彼らのリハーサルは、キンシャサ動物園だ。
レコーディングが始まった。馴れないスタジオでの演奏は、メンバーを緊張させ、失敗を繰り返す。更に、シェルターが火事になり、リッキーたちは焼け出され、路上生活に逆戻りだ。日々の生活もままならず、レコーディングスタッフは、残りの予算をリッキーに預け、フランスに一時帰国する。ロジェも、故郷の村に帰った。
1年後、レコード会社からの支援をこぎつけ、キンシャサに戻ると、リッキーたちは、煙草や菓子を売る屋台で生計を立てていた。その年は、ジョセフ・カビラの大統領選挙が行われている。
再び、メンバーを集め出すリッキー。ロジェを探しに出るが、車でも辿り着けないような場所だ。しかし、成長したロジェが、小舟に乗ってリッキーの前に現れた。
レコーディングは再開された。今回は、いつもリハーサルをするキンシャサ動物園でスタートした。
夜、蚊の大群に悩まされながらも、素晴らしい演奏が録れた。一年のブランクを感じさせない集中力で、彼らの1stアルバム「屈強のコンゴ魂」が完成した。
アルバム完成記念コンサートが、キンシャサのフランス系会場で開かれ、大成功を治め、800ドルのギャラも入った。リッキーは、メンバーにギャラを分配する。ロジェには、主要メンバーと同じ80ドルを渡し、入院中の母親の治療費を払って退院させてやれと言う。次は、いよいよ、海外ツアーだ。2009年7月、フランスで行われたユーロックフェスだ。パスポートも、飛行機も、勿論海外も初めての経験だ。口々に自分たちの音楽への自信を語りながらも、緊張した表情のベンダ・ビリリのメンバー。
コンサートは素晴らしいものだった。
トンカラ(段ボール)の上から世界へ。
友よ忘れるな。昨日は道で食べ、今日は皿で食べる。今日は皿で食べ、明日は道で食べる。
リッキー、ロジェ、ココ
「屈強のコンゴ魂」
2010年7月、ユーロック
トンカラ(段ボール)の上から世界へ。
友よ忘れるな。昨日は道で食べ、今日は皿で食べる。今日は皿で食べ、明日は道で食べる。
ルノー・バレ&フローランド・ドラテュライ監督『ベンダ・ビリリ! ~もう一つのキンシャサの奇跡(132)』
2004年12月、コンゴ民主共和国の首都キンシャサ。深夜の町には沢山のストリートチルドレンがいる。彼らは、かっぱらいやタカリなどて、生きている。人から盗んで生きていくのが、ジャングルの掟だと、一人の少年は言う。
2005年5月、同じ場所に、自転車やバイクを改造した車椅子に乗った男たちが、集まって来る。リーダーの男はリッキー。パパリッキーと呼ばれる障害者の自分達が生きていくために、バンド、スタッフ・ベンダ・ビリリを作っているのだ。彼らは、幼い頃ポリオに感染して障害者となった。身体障害者シェルターで暮らしている。そこには彼らの家族も暮らしているが、皆路上生活とほとんど変わらない生活だ。キンシャサの子供たちは、子供同士博打をし、その日暮らしだ。そんな子供たちに、音楽で生計を立てる術を教えるリッキー。彼らの歌のテーマは、日常の生活から生まれた力強いメッセージだ。トンカラ(ダンボールのこと)の上で、寝起きする生活を歌った“トンカラ”、自分たちのようなことが起きないように、母親に幼児にポリオのワクチンを飲ませてくれと言う“ポリオ”、ギタリストのココが歌うコンゴの大河プールマレボ(?)の両岸で別れ別れに暮らす妹を歌った歌“マルガリータ”
ある夜、ドキュメンタリー映画のクルーは、空き缶と一本の木と針金で出来た自作の楽器を演奏すことで、生きて行こうとしている13歳の少年ロジェに出会い、リッキーに紹介する。リッキーは、俺が時間を掛けて仕込めば、ロジェが将来優秀なリード・ギタリストになるだろうと言って、メンバーに加えた。彼らのリハーサルは、キンシャサ動物園だ。
レコーディングが始まった。馴れないスタジオでの演奏は、メンバーを緊張させ、失敗を繰り返す。更に、シェルターが火事になり、リッキーたちは焼け出され、路上生活に逆戻りだ。日々の生活もままならず、レコーディングスタッフは、残りの予算をリッキーに預け、フランスに一時帰国する。ロジェも、故郷の村に帰った。
1年後、レコード会社からの支援をこぎつけ、キンシャサに戻ると、リッキーたちは、煙草や菓子を売る屋台で生計を立てていた。その年は、ジョセフ・カビラの大統領選挙が行われている。
再び、メンバーを集め出すリッキー。ロジェを探しに出るが、車でも辿り着けないような場所だ。しかし、成長したロジェが、小舟に乗ってリッキーの前に現れた。
レコーディングは再開された。今回は、いつもリハーサルをするキンシャサ動物園でスタートした。
夜、蚊の大群に悩まされながらも、素晴らしい演奏が録れた。一年のブランクを感じさせない集中力で、彼らの1stアルバム「屈強のコンゴ魂」が完成した。
アルバム完成記念コンサートが、キンシャサのフランス系会場で開かれ、大成功を治め、800ドルのギャラも入った。リッキーは、メンバーにギャラを分配する。ロジェには、主要メンバーと同じ80ドルを渡し、入院中の母親の治療費を払って退院させてやれと言う。次は、いよいよ、海外ツアーだ。2009年7月、フランスで行われたユーロックフェスだ。パスポートも、飛行機も、勿論海外も初めての経験だ。口々に自分たちの音楽への自信を語りながらも、緊張した表情のベンダ・ビリリのメンバー。
コンサートは素晴らしいものだった。
トンカラ(段ボール)の上から世界へ。
友よ忘れるな。昨日は道で食べ、今日は皿で食べる。今日は皿で食べ、明日は道で食べる。
リッキー、ロジェ、ココ
「屈強のコンゴ魂」
2010年7月、ユーロック
トンカラ(段ボール)の上から世界へ。
友よ忘れるな。昨日は道で食べ、今日は皿で食べる。今日は皿で食べ、明日は道で食べる。
2010年8月18日水曜日
喜劇と悲劇。
久しぶりに午前中から行動。暑い。昨夜の暴飲に、腹も冴えず、水やらビタミンウォーター飲みながら、旗の台で、打合せ。心配していた通りの状況。大丈夫なのか?昼、旗の台で蕎麦と蕎麦湯で、少し腹も落ち着いたので、渋谷で下車。
ヒューマントラストシネマ渋谷で、
ルーベン・フライシャー監督『ゾンビランド(130)』
ホワイトハウスから煙が上がっている。見るとカメラは上下逆だ。ゾンビが襲って来る。ホワイトハウス前の通りには、何台もの横転し、乗り捨てられた車が転がっている。数ヶ月前、新型の牛ウイルスが、ハンバーガーを食べた者たちにパンデミックを起こし、感染者はゾンビになり、次々に人を襲い、今ではゾンビだらけになった。ここは、ゾンビランド合衆国だ。
ゾンビ達から逃れる方法のルールNo.1は、有酸素運動だ。逃げ足の速さが肝心だ。だから、まずゾンビの犠牲になったのは、のろまなデブたちだった。
更に、ゾンビを退治するために、射撃をしても、二度撃ちをしないと、襲ってくる。これがルールNo.2。更に、どんな時でも気を抜いてはいけない。人間が一番油断する場所、それはトイレだ。ルールNo.3はトイレにご用心だ。
この30を超えるルールを作ったテキサス州ガーランドの大学生(ジェシー・アイゼンバーグ)は、引き籠りの臆病者だった。彼は、自室でPCに向かっていたので、ゾンビに出会わずに済んでいたのだ。当然、童貞でキスをしたことも、ガールフレンドの髪をかきあげた経験もない。
ある日、彼は、部屋のドアを激しく叩き助けを求める女学生の声を聞く。彼女は406号室の女(アンバー・ハード)だった。セクシーで美人の彼女を部屋に入れ話を聞くと、街を歩いていたら、浮浪者が襲ってきたのだと言う。更に咬み付こうとしたので、必死に逃げて来たのだと言う。飲み物(何だったか忘れてしまったが・・・微妙な味のヤツ)を出し、疲れたので眠らせてという406号室の女に寄りかかられ、彼女をオハイオ州コロンバスの両親に紹介してもいいなと思いながら、自分も眠ってしまうと、数時間後、彼女がゾンビになって唸っているのに気がついて目が覚める。部屋の中を逃げ回り、ドアに足を挿んで骨を折っても、平気で追いかけてくる女。トイレの貯水タンクの蓋で、二度、女の頭を殴り、やっと逃れることが出来た。
やっと、両親を訪ねて、安否を確かめようと外に出る。車が動かなくなって困った時に、3と手書きの数字が書かれた重装備の車がやって来る。果たして、運転しているのは味方なのか。車が停まり、ショットガンを抱えた、マッチョなテンガロンハット男(ウディ・ハレルソン)が降りてくる。ライフルを構えた主人公と暫く向かい合っていたが、取り敢えず、親指を立て、ヒッチハイクさせてもらうことにする。車に乗せて貰ったものの、フロリダ州タラハシーに行くと言う男に、同じ東に行くのだから途中まで乗せてくれと言うが、どうも馬が合わないと言う男。結局名前は名乗らず、お互いの目的地、コロンバスとタラハシーと呼び合うことになった。
タラハシーは、ゾンビハンターとしては優秀だった。しかし、何故か安物のスポンジケーキ、トゥインキーズを探して旅をしているのだ。
笑った。笑った。
シアターN渋谷で、
74年ジャパン・ムービー・ピクチュアー村山三男監督『樺太1945年夏 氷雪の門(131)』
日本最北の稚内の、樺太を望める稚内公園の北端に、氷雪の門というモニュメントがある。樺太で亡くなった全ての人々の慰霊塔である。その隣に、真岡郵便局電話交換師の乙女9人の悲劇を後世に伝える碑が建てられている。
正に65年前のこの数日を描いた作品。日本映画冬の時代に、こんな映画あったんだな。
夜、若手クリエーターが集まる飲み会に誘われていたが、都合出来、キャンセル。52歳の肉体には、連日の飲酒はきつかったので、助かったともいえるか・・・。
ヒューマントラストシネマ渋谷で、
ルーベン・フライシャー監督『ゾンビランド(130)』
ホワイトハウスから煙が上がっている。見るとカメラは上下逆だ。ゾンビが襲って来る。ホワイトハウス前の通りには、何台もの横転し、乗り捨てられた車が転がっている。数ヶ月前、新型の牛ウイルスが、ハンバーガーを食べた者たちにパンデミックを起こし、感染者はゾンビになり、次々に人を襲い、今ではゾンビだらけになった。ここは、ゾンビランド合衆国だ。
ゾンビ達から逃れる方法のルールNo.1は、有酸素運動だ。逃げ足の速さが肝心だ。だから、まずゾンビの犠牲になったのは、のろまなデブたちだった。
更に、ゾンビを退治するために、射撃をしても、二度撃ちをしないと、襲ってくる。これがルールNo.2。更に、どんな時でも気を抜いてはいけない。人間が一番油断する場所、それはトイレだ。ルールNo.3はトイレにご用心だ。
この30を超えるルールを作ったテキサス州ガーランドの大学生(ジェシー・アイゼンバーグ)は、引き籠りの臆病者だった。彼は、自室でPCに向かっていたので、ゾンビに出会わずに済んでいたのだ。当然、童貞でキスをしたことも、ガールフレンドの髪をかきあげた経験もない。
ある日、彼は、部屋のドアを激しく叩き助けを求める女学生の声を聞く。彼女は406号室の女(アンバー・ハード)だった。セクシーで美人の彼女を部屋に入れ話を聞くと、街を歩いていたら、浮浪者が襲ってきたのだと言う。更に咬み付こうとしたので、必死に逃げて来たのだと言う。飲み物(何だったか忘れてしまったが・・・微妙な味のヤツ)を出し、疲れたので眠らせてという406号室の女に寄りかかられ、彼女をオハイオ州コロンバスの両親に紹介してもいいなと思いながら、自分も眠ってしまうと、数時間後、彼女がゾンビになって唸っているのに気がついて目が覚める。部屋の中を逃げ回り、ドアに足を挿んで骨を折っても、平気で追いかけてくる女。トイレの貯水タンクの蓋で、二度、女の頭を殴り、やっと逃れることが出来た。
やっと、両親を訪ねて、安否を確かめようと外に出る。車が動かなくなって困った時に、3と手書きの数字が書かれた重装備の車がやって来る。果たして、運転しているのは味方なのか。車が停まり、ショットガンを抱えた、マッチョなテンガロンハット男(ウディ・ハレルソン)が降りてくる。ライフルを構えた主人公と暫く向かい合っていたが、取り敢えず、親指を立て、ヒッチハイクさせてもらうことにする。車に乗せて貰ったものの、フロリダ州タラハシーに行くと言う男に、同じ東に行くのだから途中まで乗せてくれと言うが、どうも馬が合わないと言う男。結局名前は名乗らず、お互いの目的地、コロンバスとタラハシーと呼び合うことになった。
タラハシーは、ゾンビハンターとしては優秀だった。しかし、何故か安物のスポンジケーキ、トゥインキーズを探して旅をしているのだ。
笑った。笑った。
シアターN渋谷で、
74年ジャパン・ムービー・ピクチュアー村山三男監督『樺太1945年夏 氷雪の門(131)』
日本最北の稚内の、樺太を望める稚内公園の北端に、氷雪の門というモニュメントがある。樺太で亡くなった全ての人々の慰霊塔である。その隣に、真岡郵便局電話交換師の乙女9人の悲劇を後世に伝える碑が建てられている。
正に65年前のこの数日を描いた作品。日本映画冬の時代に、こんな映画あったんだな。
夜、若手クリエーターが集まる飲み会に誘われていたが、都合出来、キャンセル。52歳の肉体には、連日の飲酒はきつかったので、助かったともいえるか・・・。
2010年8月17日火曜日
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