久しぶりに映画を見ない日と言っても、京橋のフィルムセンターで『映像アーカイヴの未来』というシンポジウムに参加していたので、何をか言わんやと言う感じ。シネフィルなんて上等なものじゃなくて、フィルムジャンキーというかシネマジャンキー。シネジャンと略すと軽い、軽い(笑)。時代小説と時代劇とフィルムノワールで1日が終わると、江戸時代の尾羽打ち枯らした初老の浪人になった気分で、これはこれで気持ちがいい(苦笑)。主持ちの侍が江戸に出奔して、どこぞの長屋で浪人になって、貧しいがせいせいするなんて話は随分読んだ気がするが。
シンポジウムはカナダ、 フランス、韓国とせっかく海外からパネリストを呼びながら、テーマの設定が緩すぎるのと、どう話を持っていくかのビジョンもないので、辛い。1人10分で6人に話させて1時間で討論は無理がある。また映像アーカイブと一言で言っても、国立近代美術館がやっている映画の文化資産としての保存公開活動と、カナダの国立映画制作庁(NFB)や、フランスの国立視聴覚研究所(INA)が、自分達が持っているフッテージを素材の映像アーカイブとしてセールスしていることと、NHKアーカイブがやっていことはビジネスモデルが違う(まあフィルムセンターはビジネスでもないが(笑))。
映像の権利処理と一言で片付けられない、権利の束である映画の著作物として、クリエーターや出資者へのインセンティブとなる利益配分と、アナログフィルムをアーカイブ活用するためのデジタル化の経費を、ごっちゃにして“映像アーカイブのコスト”として一括りにしてしまう乱暴さでは、議論にならないのではないか。どこも以前の権利者探しの大変なのは一緒ですねでは、なんの提言にもならない。
映像作りの技術の大衆化で、CGMやら、ホームビデオやら、携帯の動画カメラやら、映像コンテンツを誰でも作れて、玉石混交な代物が
ネット上に氾濫している時代なのだ。アーカイビングのコストを誰がどう負担するかというのが、分かり易いが、絶対答えが出ない問題だ。
司会者は、書籍の国会図書館のように、法律で、映画も提出義務化なんて考えているみたいだが、プリント代いくらか知っているのだろうか。フィルムセンターの人も日本映画の製作本数を劇場公開数で考えているが、Vシネや、テレフューチャー、記録映画やら、広告用短編とかは切り捨てるのか。そもそも、ビデオ、DVDパッケージは全て国会図書館に提出されているのか。AVは?とか考えるだけでも気が遠くなる。
自分は、どう考えても、国宝や重要文化財のように、国の文化政策の一環として、選んだものだけ、維持管理の費用を出すしかないのではないかと思う。NHKの方は、アーカイブ事業は受信料ではなく受益者負担の有料課金に制限されていることに、不満そうだったが、であれば、NHKの受信料は、あんな乱暴な定額制でいいのかという議論があると思う。公共性の意味を、もっと厳しく問われるのではないか。公共放送の根底の問題だ。
更に司会者は、アーカイビング事業の従事者の育成を、自分達芸大のような教育機関にみたいな本音が見え隠れしていたが、今必要なのは、評論家や学者や文化庁の役人ではなく、世界に通用するクリエーターを輩出することと、クリエイティブをビジネスに変えることが出来る人材の育成じゃないのか。農業従事者を増やすことをしないで、農林省の役人増やしても、ろくなことにならないと、明治以来の官僚組織が物語っているじゃないか。アーカイブ用倉庫を充実させても、新しい作り手と新しい観客を作らないと、只の墓場の番人だ。と、4時間を費やしながら、主催者だけ嬉しそうなので、少し腹もたつ(苦笑)。
映画見ない日だと思っていたら、シンポジウムの最後に、松本俊夫が1955年に日本自転車工業会の依頼で、海外向けに作った宣伝用短編映画『銀輪(327)』が上映される。確かに、松本俊夫監督で、特撮を円谷英二、音楽は武満徹らが作ったコンクレート・ミュージックという伝説的な作品が、2005年に発見されたというのは、ニュースだ。55年のカラー映画なので安定しない色調も、殆ど擦っていないプリントなので非常に高画質だと思う。しかし、実験映画が、宣伝用短編映画として仕事だったのかというのは、正直疑問だ。自分がクライアントだったら、この映画を海外で上映して、何と説明するのだろうか。アーカイブにする映像の価値を考える上で割切りない問題を、この映画が象徴しているという皮肉な感想を思った。
京橋から帰宅しようとすると、元会社の後輩で、ヤメ同期が就職決まったという連絡が・・。就職祝いをしてあげることになって、高円寺きよ香で、久米仙と海ぶどう。
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