2008年4月9日水曜日

元の会社の先輩が亡くなっていた。合掌。

27年前のことだが、入社試験でその人に会った。制作要員の1次面接。
 こちらは一人、面接官は髭を生やしたスーツ姿の男二人と人事部員。キザな感じの一人とは、上海バンスキングの話。もう一人の文科系の全共闘くずれっぽいディレクターは、普段はどんな格好しているの?と聞かれて、ジーバンに革ジャンですね。というやり取りのみ。 どこがどうよかったのか悪かったのが、全く不明だが、そのあと、結果として制作要員2名の枠に入ったのだった。(そのとき入社した制作要員2名、宣伝要員2名は、自分がやっとのこと退社したことで誰もいなくなったのだが)
 入社して、研修という名の、長い長いライブハウスのウェーター生活が明けて配属されてみると、面接の時のキザな髭のほうは、ニューミュージックジャンル(この呼び名も死語だな)のプロデューサー、全共闘くずれっぽい髭は、フォークなどのディレクターを経て演歌、歌謡曲のディレクターだった。
 当時、 レコード会社のディレクターというのは、すでに原盤権を外部に渡していたことで、自分のイメージしていたものとは、全く違っていた人が多かったが、全共闘(こればかりもなんだな、Nさんとしよう。)Nさんは、ベテランの女性演歌歌手に、歌謡史に残る代表曲をいくつも生み出していた。当時の生意気な自分は、60年代の歌謡曲は好きでも、演歌の歌詞のリアリティの無さを軽蔑していたので、この会社に入らなければ、ちゃんと聞くことも無かったろう。宣伝部の一番下の部員として行った現場で、スティービー・ワンダー、レイ・チャールズ、アリサ・フランクリン(他にも大好きな歌い手は多いが、生で歌うのを見ることもなく亡くなっている人が多い)のような音楽の神様に愛されている歌い手が歌うところを目撃することができた。その一人は、すでになくなったあの昭和歌謡のディーバであり、もう一人は、Nさんが関わっていたHさんだ。もう25年くらいたつと思うが、新宿厚生年金会館のステージ。その歌は本当にすごかった。すべての言葉が歌声としてコントロールされて、自分の耳から脳に入ってくる。痺れた。その後、普通のおばさんになってしまい、復帰後も何度か、拝聴する機会はあったが、あのころのすごさが自分の中で相当美化されているせいもあり、味わえなかったが、日本の音楽史に残る歌い手だという気持ちは変わらない。
 いわゆるディレクターという名称でも、A&R(アーティスト&レパートリー、この歌手に何の曲を歌わせるか)としても、当時のNさんは本当にすごかった。かなり語弊のある言い方だが、私のような小僧にも、素人と玄人、プロとの差が実感できる人だった。CGM(コンシューマージェネレーテッドメディア)なのか、1億総アーティストなのか、表現手段の大衆化は、多くの作品を生み出す。けれど、誰が天才なのかを知り、その天才をより高みに昇らせ、音楽を生み出す才能があるスタッフは本当に一握りだ。自分が直接知っている数少ないそんなディレクターNさん。Nさんが生み出した歌は、いつまでも残っていくんだろうな。ご冥福をお祈りします。阿久悠さんと、天国で、何故か魂の凍りつくような悲しい歌を作ってください。

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