7月15日の夕刊の「ツイッターに異論 続々『閲覧数へのこだわり なぜ?』」という藤生京子という記者の記事が掲載されている。
『140字のミニブログ「ツイッター」がもてはやされる一方で、批判意見も表に出るようになってきた。「いま沸き上がる『ツイッター亡国論』」(週刊ポスト5月7、14日号)、「ツイッターに疲れた・・・なう」(SPA!6月22日号)など雑誌の特集が続いたほか、疑問を投げかける識者も現れた。
ツイッターは「情報量ゼロ」のコミュニケーションであり、「日本人の未熟化」の表れだと週刊ポストでコメントしたのは、精神科医の斎藤環さん。同じく精神科医の香山リカさんは雑誌「創」7月号の連載コラムで、フォロワー(読者)の数に一喜一憂する世間の風潮が「わからない」と書いた。
斎藤さんと香山さんに話を聞いてみた。二人が揃って首をかしげるのは、ツイッター利用者がフォロワー数にこだわり、それが多いほど価値があるとみなす風潮だった。
「ブログは市井の人の潜在的な才能を知らせる効果があったけれど、ツイッターで注目されるのは著名人。内容のよしあしでなく名前優先で読む人が多いのは、反動的ですらある」(斎藤さん)
「数が多い人が勝っているという思い込みに基づく競争は、まさに市場原理。こんなところまで新自由主義的な論理がまかり通っているかと思うと、うんざりです。有名人にとててゃ宣伝の道具なのに、普通の人たちに、有名人とコミュニケーションできたかのような幻想や錯覚を抱かせているだけ」(香山さん)
ツイッターが話題を集めて約1年、積極的な効用を指摘する声が目立つ。政治家のツイッター利用を、政治と有権者の距離を縮め、政治参加のしくみに変化を促す機会と期待する声も少なくない。しかし、香山さんは「刹那的な高揚感にすぎないのでは」と懐疑的だ。本物の政治参加になりうるかは疑問だという。
議論の場をブログからツイッターに移しつつある論客が増えている点も、斎藤さんは危ぶむ。「少ない字数での瞬間的な応答が増えれば、ますます、まともな論壇の議論が少なくなる。対立があっても単なる感情的なぶつかりあいばかりで、論争に発展しない。限りなく一方向に向かう内輪メディアだと思う」
クリエーティブな表現が現れてくる可能性に期待すればいいのでは?そう尋ねると、香山さんは「飯食ったとか、新幹線乗ったとか、書かれているのは、あくまでもリアル。80年代の『ビックリハウス』のように、別の自分になれるという願望もないし、意外にクリエイティブでない気がする」。
確かに雑誌のツイッター特集などには、うさん臭いもうけ話やマーケティング利用の進めも多い。どんな力学が働いているのか。さらなる議論を歓迎したい。』(藤生京子)
いやー、自分の発言では説得力がないので、論客(笑)、識者、有名人のコメントを繋ぎ合せて、あたかも中立的な立場で書いているような新聞記者の偽善の見本のような文章だ。
「さらなる議論を歓迎したい』(!?)。おいおいメディアやコミュニケーションツールの今後について、積極的に発言しなければいけないのは、精神科医じゃなくて、ジャーナリストだと思っているメディア人だろう。
「数が多い人が勝っているという思い込みに基づく競争は、まさに市場原理。こんなところまで新自由主義的な論理がまかりとおっていると思うと、うんざりです」「限りなく一方向に向かう内輪メディア」おいおい、自分たちのことじゃないのか。ひょっとして、斎藤&香山両氏は、朝日新聞に強烈な皮肉を言ったのに、気がつかなかったとか・・・。
藤生京子googleで検索するとツイッターがトップ。まったく中身のない、小学生のようなツイット。フォローしている8人。フォローされている7人。フォロワー(読者)の数に一喜一憂する世間の風潮が気に食わないのは、発信力弱者のご自分のことではないのか。(https://twitter.com/kfju )
更に、この取材での斎藤&香山コメント、朝日新聞ギャランティ払っているのだろうか?原稿依頼の場合は、勿論支払うだろう。記事を書いた記者のみにギャラが支払われているのだとすると、毎月販売店の兄ちゃんがこつこつ回収し、自分が支払う購読料もったいない。新聞取るのやめようかと本当に思う。まあ、あと2、3年の辛抱か。
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